・水彩度


   四頁目


一週間と一日前。

 人間は考える葦である。
 フランスの(今の若造の感覚としては)古い哲学者が記した、有名な言葉だ。……曰く、人は植物の葦のように弱々しいが、その頭脳で思考を行え、そしてそれこそが人の人たる理由――人間の価値であると言うこと。あるいは同じくフランスの、またほぼ同時期の哲学者である彼の言葉を引用してみても、良いかもしれない。
 我思う、故に我在り。
 コギト・エルゴ・スム――ありとあらゆる事象の存在に疑いをかけ続けた彼が、唯一その実在を認めたのは、現在何かを疑っているという自分――つまり、思考という行為だけだった。言葉の響きとは裏腹に、随分と消極的でこじんまりとした結論だ。しかしてそれが、近代哲学の出発点となったのだ。
「……っ! ……っ、…………っ」
 人はとかく考える事が好きだ。
 考えろ考えろ、と誰も彼もが念仏のように唱える。僕だって言う。
 例え同じ結果へ行き着いたとしても、過程として『考えて』行った結果なのか、『考えずに』行った結果なのかで、他人の評価は大きく変わる。大きな損得が関わらない限り、前者は認められ、後者は非難される。どのような結果に辿り着くかは、その人間が持って生まれた才能と環境で養われる経験によって差異が生まれるが、『考える』こと自体は誰にでも可能だ。『考える』行為は、大よそどんな人間でも行える努力であり、それをしないのは怠惰と怠慢――存在の否定でしかないからこそ、人は言うのだ。考えろ、と。
「くっ……、ふっ…………」
 考える、とはどう言うことだろう?
「――ちぃ……、くっそ……」
 それは、完璧に近付く、と言う事だろう。
 人間は完璧や完全に憧れ、それらを崇拝し、そう成りたいと、そうで在りたいと、願う。どんな人間であろうと、最初はそのはずなのだ。妥協はするかもしれないが、それは100%があまりにも遠いために、全うするのが現実的な領域へと、目標段階を引き下げているに過ぎない。結局、その段階までは全うしたい――その程度には完全でいたいと願う。願い、そしてまた考える。
 とどのつまり誰だって、そこそこには完璧主義者なはずなのだ。
「…………、はあ、はぁ、……ふっ、ぅう……」
 けれど、疲れる。
 完璧主義者は、疲れる。
 完璧は疲れる。努力は疲れる。思考は、疲れる。
 届かず、報われず、終らない。
 走り疲れるように、歩き疲れるように、疲れる。
 疲れるのだ。
 疲れたら、やがて停滞を求める。
 転倒しても転落してもいい――停止させてくれ。
 ――頼むから。
「はぁー、ふぅー、はぁー、……っ!」
 それこそが自殺だ。わかりやすい終止符なのだ。
 要するに人間である事に疲れた、と言うだけで、自殺に他の理由など要らない。人が死にたくなる、簡単すぎる要因。動物以下に成り下がれるのなら、死ななくたって別に良いのだ。『人』――『思考』を停止させられたら、それだけでもういい。ただの葦へ脱落――堕落したい。
 そう、終止符。
「あー……、終了、か」
 思い至ってみれば、やたら自殺への注文が多い僕は、まだまだ完璧主義者であり、初志貫徹にこだわっているのであり、努力し、思考を続けて、つまり人として生きているのだろう。強制終了である自殺に対して、しかし正当な手続きを取ろうとしていると言う、矛盾。絵に描いたように死ぬ――納得の行く絵を描こうともがいている――完全へ到達したがっている――それゆえに、遠く、長く、結論が出なかったのだ。当たり前だった。
 望んだ通りの絵が描けるはず無い。
 生きている間に得心行くはず無い。
 だったら――ぎぢぃぃいいいん!!
 いん、いん、いん、いん……。
 せ、
 世界が、縦横、に、揺れてる……!
「……あ、わりぃ……大丈夫か、水梳?」
「ぅ、あ――あう、へいき」
 右サイドからのバスケットボールが、横顔に直撃した。耳鳴りがしている。眼鏡が吹っ飛んでいる。じんじんする。試合が――授業が終了したと思って、気を抜いていた――。弛緩した肉体と精神に青春の波動を撃ち込まれた。夕日に向かって走りたくなった。ならんわ。クリティカルだった。バスケットボールは重かった。愛みたいだ。豪快にダンクシュート。水も飲みたかったのだが、忘れてしまった。どうでもいい。あ、よくねぇ。冷やすべきか。とりあえず痛い。ITEEEEEEE。IT企業。関係無っ。ああもう、ああもう。間抜けだ。散々だ。
 …………。
 水曜日の五限目、体育の授業。
 この時間は、そんな事を考えて終った。


*   *   *


 放課後、学校の屋上で卯生と話す。
 僕の自殺方法について――だ。明日へ続くと言った手前、説明しないわけにはいかない。
 今日は生憎の曇天模様だが、その程度で僕の心は浮きも沈みもしない。さっき受けた顔の痛みも大分引いた。卯生が天文台の階段に腰掛けたのを見て、焦燥するでもなくもったいぶるでもなく、極めて普通に僕は話を始める。努めるのは、シンプルにわかりやすく解説することだけ。コイツは優等生なので、生徒引きのジョークなど必要無いだろう。
「で――――」
 例えば。
「これは例えばの話だが」
 空想話で、妄想話で、これがそのまま解答だなんて思ってもらっては困ると言うことを、僕は予めきちんと説明しておく。
「まず、ナイフを用意しよう。市販のカッターナイフは流石に殺傷力に欠けるからやめておくべきだろうけど、人を殺せそうなナイフなら何でもいい。最悪包丁でもいい。つまりこれが直接の死因になるわけだ。次に、本棚を用意する。勿論本も、本棚をある程度まで埋め尽くすくらい、用意するんだ。本棚は固定式じゃなく、また背の高い奴がいい。身長くらいは欲しいな。道具は、あと……糸。そして必要なら、画鋲やテープだ」
 ここで一端言葉を切る。
 ややこしいから、脳内で道具を用意できるまで待つのだ。
「……いいか? オーケー。そしたら、ギミック――と言っても簡単なもんだが――を用意しよう。はじめに本棚の上段に本を敷き詰める。本を取り出し辛いくらいに、本や消費者のことを考えてない本屋のように、ぎちぎちに。そしたら、その本と本の間に挟むようにして、ナイフを『据え付ける』。刃はこちら向きだ。ツバがあるのなら、それを本の背に引っ掛けるようにするとベスト。固定できたか? 後はもう一息だぜ。本棚を、『傾ける』。もう少しで倒れそうなくらいに。そして上部に糸を画鋲かテープで固定して、ピンと張ったままその糸を……ドアに『引っ掛ける』。そう――今、倒れそうな本棚が、糸の張力によって、かろうじてバランスを保っているところだな。これで完成だ」
 もう一度言葉を切り、待機。
 卯生の顔が納得行ったようになったら、続きに入る。
「ああ。あとは、『所定の位置』に座るか寝転ぶかして、“第一発見者”がドアを開けるのを待つだけだ。彼、または彼女がドアを開く――と、ドアに『引っ掛けていた』糸が外れ――結果バランスを失い、『傾けていた』本棚が倒れ――『据え付けていた』ナイフが――『所定の位置』にいる僕の胸元、ないしは首元に――」
 どすん。
「――突き刺さる。“第一発見者”の目の前で、“第一発見者”の手によって、僕の自殺は完成するわけだ」
 さて――話の根幹はここからだ。
 今までの部分は、実はどうとでもなる部分だったりする。例えばと断った理由がそれだ。
「『そして』、だ。“第一発見者”は一体どんな行動に出るだろうか? また、そもそも“第一発見者”はいかなる人物で――むしろ、どういった人物を“第一発見者”にするべきなのだろうか? ……ここで、そこに僕の親を当てはめてみる。自宅でこの自殺を行うのなら、親が第一発見者となる確率が、最も高いからな。僕が目前で死ぬのを見た親は、どんな行動に出るだろう――?」
 駆け寄る。
 救急車を呼ぶ。
 この辺りが妥当な線だろう。
 だが。
「『もし』。親が至極冷静で、且つこれが自殺であり、さらにその引鉄を引いたのが親自身であり、さらにさらに、その場の状況を読み解く事が出来たとしたら……。そう考えてみる事が、この自殺法の焦点だ。――ところで」
 ここで一端、話題を変更する。
 必要な迂回だ。急がば回れと言うまでも無い。
「ところで死ぬことが周囲に迷惑だと言う話は、以前したよな。しかし死に方に関してはどうだろう? 身内からしたら……特に、両親からしたら。自分たちの子供が死ぬのは、勿論残念で悲しいことだろうし、迷惑かそうでないかで言ったら断然前者だ。けれど、死に方によってその度合いは変わってくるんじゃないか。事故で死ぬのも病気で死ぬのも仕方がなく、運命を呪うしかない。誰かに殺されたのなら、殺人犯を恨める。だが、それが――自殺だったら? 運命のせいにも他人のせいにも出来ず、もしそれでも挫けずに何か、誰かを槍玉にあげるとしたら――自殺した当の本人になるだろう。ひいては、当の本人をそうさせてしまった周囲の人間――筆頭で自分たち肉親だ。つまり、自分たちの罪が問われてしまう。迷惑だと言うのなら、自殺されるのが何より迷惑だ」
 毬雲は、死んでも殺されても駄目、殺す方も殺される方も悲しい人だと言ったが、実際のところは自殺よりも殺人、殺人よりも事故病気で死んでくれた方が、まだしもましだろう。勿論死は残念な事で悲しいことで、あってはいけないことかもしれない。
 それでも、やっぱり、特に、だ。
「自殺は禁忌なんだよ。動物は他の動物を殺すし、人間も毎日鶏・豚・牛から虫けらに至るまで、年がら年中何かを殺害し続けてる。身の危険が差し迫った時、他人を殺すか自分が死ぬか二者択一の状況なら、まずほとんどの人間が殺人を選ぶ。それらは生存するものとして、当たり前の心理で――自殺を選択するなんて、生物として破滅してる。異常だ」
 異常で、在ってはならないこと。
 正しくない、間違った、ポンコツ。
 そんな子供を持ってる親は、親として失格なのだ。
 ――少なくとも、世間様の認識としては。
「それでは話を戻す。僕の親は、彼等の手で自殺を達成した僕の死体を発見した。ここで運良く取り乱しもせず、状況を冷静に把握したとするのなら、ひとつのことに気付くはず。現場に残っている物体の中で、糸さえ回収、処分してしまえば――客観的に、この状況は『自殺ではなくなる』――と、言う事実に、だ」
 そう。
 僕は自殺しなかったし、親も僕を殺さなかった。
 殺人の中でも事故に限りなく近い、通り魔や空き巣による殺人。
 うまくすれば、『家に侵入した何者かと揉み合った末に殺された、可哀想な息子の死体』に、仕立て上げる事が可能なのだ。たった一本の糸を、消すだけで。
「勿論、そこで糸の回収に走るような親は、実際にはいないだろう。けれど、もし家中が荒らされていたら? 金品が失せていたら? ナイフが背中に刺さっていたら? あるいは遺書に糸を回収して欲しいと最後のわがままが書いてあったとしたら? 話は変わってくるかもしれない。演出次第で、思考の方向も移る行動の種類も、変動する」
 はたして、僕の親はどうするだろう。
 人生最後の博打、賭博、そして一興。
 自身の存在に対しての、最終設問だ。
「絵に描いたように死ぬ――何も、自分で描ききる必要は無かったんだ。自分が絵筆を持てなくなった後でも、死に様に彩り沿えて描き飾ってくれる人間は、周囲にいるんだから。好きなように――最大限迷惑にならない形で、僕の死を語ってもらえばいい。例え正直に自殺だと公表された所で、それは彼等の選択の結果になる。選択の幅を残すこと、選択できるよう自分の死に関してお膳立てすること――以上が、昨日僕が思い至った自殺の発想だよ。とりあえずの形に纏め上げるべく、一日貰ったけれどね」
「ふぅぅ〜ん……」
 卯生は息を大きく吸って。吐いた。そして僕の説明をしばらく咀嚼するようにしてから、言った。
「自分以外の人間に、自分の死をあえて飾らせる、かぁ」
「そ」
「粋だねぇ」
 しみじみと。
「でも、その話では親御さんがどう言う行動に移るかは、わからないんだよね」
「僕は死んじゃってるからな」
「それでも良いの?」
「この際結果はどうでも良いんだよ。重要なのは、そこまで僕が状況を用意したってことだ。迷惑をかけるのを怖れ、そのために僕なりの最善を模索したこと。それさえ伝われば良い。描きたかったのはその死に様だけで、後からどんな風に飾られようと、気にしない」
 世の中に数多存在する真実がそうであるよう、解釈の問題だ。今日は空の大部分を覆い尽くしている雲の形や、その向こう側の星の配置。見る人によってそれらの意味は違ったように捉えられるが、実際それらはただ存在しているだけ――言ってしまえば、これも『思考』の賜物だ。
「んー……。はい、先生」
 卯生がぴしっと手を挙げる。コイツはぴしっと手を挙げて発言をする、かなり希有な生徒だ。ノリ良く僕も、定型句で受けて立つ。
「はい。何ですか、保呂羽さん」
「ナイフは固定しないんですね?」
「良い質問ですね――とか言うけれど。悪い質問ですね、って受け答えは聞いたこと無いよな」
「馬鹿な質問をするな! ってゆーのが、良い質問ですね、の反対語じゃない?」
 そもそも、良い質問って何なんだ、都合の良い質問なのか、目の付けどころが良い質問なのか、最近ではむしろ質問してくれるだけで良い傍聴人じゃない……と、少し脇道に話が逸れた。気を取り直して、真面目に返答する。
「……ま、『据え付ける』とは言ったが、本と本の合間に『差し込む』くらいが正しいかもしれない。テープなんかできっちり固定してしまうと、後からの他殺偽装が難しくなるからさ」
「ああ、そっか。敷き詰めた本は、本棚が倒れたら抜け落ちる……だから、ナイフの方に痕跡が残らないんだ。上段だけって言ったのは、バランス悪くするためか。全体量も軽くなって、細工もしやすくなる……しね」
「うん。自殺である事の決定的証拠は、残してしまってもいい。けれど、それの回収が至って簡単であることが大事だ。発見者の精神的ハードルを、どれほどまで下げられるかがポイントだね」
「なんだかゲームみたいだねぇ」
「ゲームだよ。コイン代わりに自分の命を使うだけ」
「現代っぽい台詞ー」
「現代っ子ですから」
 最終的にそう言う所へ落ち着くんだろう。
 努力に疲れる、辛抱の無い現代っ子。ぬるい愉悦に浸りきった現代っ子。
 思考を放棄する傾向。脱落を願い、自殺に走る――ゲーム感覚の若者たち。結局は、そんなもんだろ。ゲーム中のスリルを求めているのか、それとも小気味良いゲームオーバーを望んでいるのか、焦点が違うだけ。願わくば、リセットされることの無いように。
「確実性は?」
「そこはもう、練習次第だろ。練習できるタイプの方法だし」
「ふーん……。……ん、いいんじゃないかな」
 もう一度考えをなぞってみてからだろう、卯生はそう結論を出した。
「面白いと思うよ」
「そっか」
「そっけないじゃん。人が折角誉めてあげてるのにー」
「うーん。誉めてもらうのは嬉しいんだけど」
 別に自殺法誉められても嬉しくないが。
「このまま使うわけには行かないからな。ウチの親じゃ、そこまで淡白な判断しなさそうだし」
「そだねー。きーきの親御さんじゃ、焦ってそれどころじゃないかもねー」
「だろ? 着想、着眼点――考え方の根本はやっと捕まえたけれど、実際にどんな方法を取るかは、まだ見えてない感じだ。はじめに言っただろ、例えばの話だって」
「成る程」
 まぁ、根幹の部分……つまり死ぬ前に全てを終らせるのではなく、自分の死後、あえて他人に自殺の演出を任せてしまう――と言う部分は、悪くないと思う。ここから先は、まだ改良の余地があるし、逆にここからが楽しい(?)ところ……なのかもしれない。
「卯生の方は何か――」
 言いかけたところで、
「あ――雨」
 と、遮られた。
 言われて空を見ると、ぴしっと額に冷たいものが命中した。二人とも咄嗟に立ち上がり、荷物を掴んで校舎内へ退避する。窓の外を眺めていたら、次第に雨音が聞こえてきた。
「…………」
「おー……、結構降ってるねー。夕立かな、こりゃ」
「やっば。傘持ってねー」
「あたしは持ってるよー。天気予報で言ってたからね」
 ししし、と変な笑い方をされる。
 く……天気予報は僕も見たんだ。見たが、30%だったからな。迷ったものの、朝は時間も無かったんで持ってこなかったんだ。くそ、大したことじゃないのに悔しいぞ……。今日はなんだか、随分平和的で学生的な厄日だぜ。溜息が出る……。折り畳みくらい、常に鞄へ入れておくべきだった。
「おい、傘貸してくれないか?」
「ええ、何で? 持ってこなかったそっちのミスじゃん。て言うかうーうちゃんが濡れるじゃん」
「さっきの授業料」
「釣り合ってねぇー! 釣鐘と提灯どころじゃないよ。釣鐘と釣り針くらい釣り合ってないよ。釣りの三乗、つりキチ三平だよ」
「うぉう、なんか上手いこと言いやがった!」
「はい、さっきの授業料かーえしたー」
「小ネタ一つで早くも返済された!?」
「おっさきー」
 明るい水色の傘を持って、帰ろうとする卯生。
 ま、仕方がない。ビジネスライクな幼馴染だ。靴箱周辺を見てみるが、部活も終っていない中途半端な時間なので、人はほとんどいない。止むまで待つか……メンドーだなぁ。この学校の図書室は、あまり面白い本を置いてないのだが。
 視点を戻すと、卯生はまだ帰らずにこちらを見ていた。
「アイアイする?」
「あいあいがさ?」
「ラブラブアンブレラ」
「必殺技みたいだが、あれは相手に合わせるって書いて相合傘だぜ。ラブい仲でもねーし」
「あはは、釣り合わないってあたしが振ったんだよね」
 このネタ引っ張られるなぁ……。やっぱ高校生は恋愛なのだろうか。
「まーまー、考えてみたらきーき、私に自殺方法を話してくれるために、今日学校に来たんでしょ?」
「ん? そだけど」
 言ったっけ。
「せーせはあたしの彼氏じゃん。忘れんなよ」
「…………ああ」
 どいつもこいつも情報が早いと言うか、頭が回ると言うか……あやかりたいもんだ。
 卯生は玄関のガラス戸を開けて、傘をゆらした。
「てことで、そっちの分のギヴンをテイク」
「サンクスアロット」
 靴を履き、外へ出た。
 身長の関係上、僕が傘を持つ。結構大きい傘で骨の数が多く、明るいスカイブルーがコイツらしい。……相合傘とか、言葉自体が懐かしいな。酷くレトロな響きがする。今時、恥ずかしがるような事でもないだろうし、そう言う気分に漸近すらしない。ラブラブとかは、もはや小学生のノリなんだろう。
 しかし、卯生の良い香りが気にならないこともない、距離だった。
 やがて家に着き、傘を手渡した。アイツは受け取ってじゃあねと一言、歩き出した方向は、保呂羽の家とは違った。

 どうやら寄る所が、あるらしい。



▼    ▼    ▼



一週間前。

 約束も無いし部活も無い。躊躇無く学校を休んだ。
 理由は特にひねらず、だるくて頭や喉が痛くて――つまりは仮病だ。休むことや仮病を装うことに後ろめたさはそれほど感じなかったが、時計を見るたびに今何時間目の授業を学校で行っているのかを考えてしまうあたり、僕も学生なんだなと思った。十時(二時限中盤)頃までベッドの上でうだうだしてみたものの、退屈だったので起床した。漫画やらを再読しつつ、時間を思う存分浪費する。浪費とは、無駄に消費すると言うことだ。無駄無駄無駄無駄。そのままないない尽くしで日が暮れる……と、予想していたのだが、夕方になって携帯電話にメールが一件。
 卯生だろうと思った。
 しかし違った。
「毬雲……?」
 毬雲雛鳴は、メールを使う事が少ない。かと言って電話を掛けてくるわけでもない。携帯電話という機器自体が不得手なのだろう。一応学生同士のたしなみとしてメルアド類の交換はしてあるものの、僕もそれほど携帯電話に堪能なわけではないので(使用するのは卯生か、一部の友人相手程度だ)、毬雲とのやり取りはほとんど美術室オンリーだ。
 珍しくメールボックスに毬雲雛鳴の文字が光っているのを観賞してから、内容を表示させた。
 件名……「槍振公園にいます」
 本文……「軌跡君今日は。まだ暗くないから今晩はじゃないのです。帰宅してお家にいますか? お家にいて暇だったら、槍振公園に来て下さい。場所はわかる? 軌跡君のお家の近くなんだけど」
「……ああ。毬雲、知らないのか」
 今日僕が学校休んだこと。
 別のクラスだしな……まぁ、仮病なんだが。にしても槍振……? 確か近所の公園がそんな名前だったか……最後にあそこで遊んだのはいつだろ。てか、毬雲の家はこの近所ではないはずなんだが……電車通学だったはずだ。なんだ、わざわざ会いに来たのか? ううん?
 何のために?
「まさか、砂場に作品を作ったから、見に来て――とかじゃないだろうな」
 だったら凄い。かなり見たい。尊敬する。しかしそれなら写メールよこせば良いだけだし、流石に撮り方や添付方法がわからない事はないだろう。
 …………。
 ま、行かない理由はない。
 火曜日の時のように、毬雲対応は早いほうが面倒にならないのだ。
 でも、しまったな。服装がパジャマのままだ。今から制服を着る気にもなれないし……近所だし、シャツにパーカーとジーンズでいいか。
 外に出る。


*   *   *


 公園に着く。
 この間、十分。久し振りだったので、少し迷った。
 こじんまりとした公園だが、丸いジャングルジム、昨日の雨で湿った砂場、滑り台にブランコ、登り棒、街灯もきちんとある。子供の身体なら走り回る事も可能だろうし……もし公園と名乗るのに資格が必要だとしても、ここはその資格を十分取得できるだろう。くるりと見回して、学校の制服を見つける。
 毬雲はベンチに座っていた。
 鞄を抱えて、ちょこん、と。
 互いに目が合って、少しの逡巡。火曜日のこともあるので、どう対応したものか少し悩んだが、軽く右手をひらつかせる程度の挨拶を選んだ。なるべく何事も無かったかのように近付き、毬雲の隣に腰をかける。近すぎず、遠すぎず、言葉は届いても指先は届かない、距離。
 何の用か尋ねようかと思ったが、実は予想がついていた。
 予測――むしろ、予感か。
 毬雲の顔を見て、思い至ったと言うか。
 なので、先に口を開いたのは毬雲だった。
「私服姿の軌跡くンは初めてです」
 まずは無難な所から。
「私服って言うほど気合の入った代物でも、ないけれどさ」
「だらだら」
「だらだら」
「だらだーら。あ、今日学校に来てない……ン?」
「実はね」
 気付いたか。と言っても、隠すようなことじゃない。
「そっか」
「ちょっとだるくて。風邪かな? 熱は無いんだが」
「いけないですねー。風邪は百獣の王って言うンですよ。医者の無愛想とか、図鑑速達とか、言います。ほンとだよ」
「いや、嘘だろ」
 間違いだらけだ。そのうち、風邪は乾布摩擦で治しましょうとか言ってくるに違いない。
 それにしても、毬雲はいつもより大人しい。美術室と言うテリトリー外なので、静かなのだろうか? 絵を描いていないからだろうか? もしくは、だ。
「軌跡くンはほンとです?」
「いや、嘘だが。本当に具合が悪かったら、メールでそう返すからね」
「安心です」
「……ですか。…………」
「…………うン。………………」
 会話が、そこで途切れる。
 街灯は既に灯っていて、空の色も少し歪なオレンジ色。向こう側は黒く染まり始めている。
 予感。――ろくでもない、予感がする。
「…………」
「……ンー……」
 隣を見る気にもならない。ひたすらに星の姿を探す。
 だからさぁ、そーゆーのはやめてくれよ、と言いたい。苦手なんだよ。わかるだろう? 確かにありふれていて蔓延っていて珍しくもない当たり前のお話だけどさ、それゆえに対応が面倒なんだよ。面倒面倒、こんな感想を抱く奴はマイナーかもしれないが、僕は面倒としか感じないぜ? やっと方針も見つかったのに出鼻を挫くつもりか。ああそうなのか?
「……………………」
「……、……」
 沈黙が続く。公園は賑わっていない。
 誰かいてくれれば、まだ楽なんだけれどね。脇の道を通る奴等はいるけど、ベンチに着席中の若者二人を見かけて、余計な気を使ってくれる。全く皆様お優しいことで。流石に家に来られるよりはマシだったとは言え、公園ってチョイスも精神的に辛いものがある。公園はその名の通り公共物、だから誰だって利用する。だから誰だって見物できて、見世物のような気分だ。
「……」
「………………………………」
 おいおい、いい加減進めてくれよ。星が数え切れなくなってきた。
 火曜日の事を思い出す。ああ、あの時はまだ良かった。べらべらと一方的に喋られるだけで、こっちはただそれを聞き流せばよかったんだから。五月蝿いとも思ったし突き刺さるものも無かったではないが、無闇に意味深で無意味に闇雲な、この無言空間よりはずっといい。あの時は自殺法の収穫もあったしね。今現在は、心苦しく息苦しいだけだ。
「…………」
「…………」
 どうしろってんだ。こっちから切り出すわけにもいかないし。
 あの部活の時、あの場で決着をつけておくべきだったか。放置された絵について卯生の奴と意見交換していたり、ビブの過去話をしている場合ではなかったか。今何をしてるんだアイツは。この状況、実は気付いてたんじゃないか? 女の子だしな。だったら何故言ってくれない。僕はことここに至るまで、まるで考えなかったぞ。とことん裏切り者め。根も葉もない逆恨みだけどさ。
「……あの」
 と。
「軌跡くン」
 毬雲が、やっと続きに入った。
 僕はなるたけ普通に返事をする。
「うん。何?」
「このあいだのこと……なンですケド……」
「……」
「火曜のビブの」
「ああ」
 ふぅ。
 来た来た。
 ま、そう来るか。
 火曜日の話から入るか。
 妥当なところではあるだろう。
 困るは困るが、沈黙よりもやはり会話だ。
 ゆっくり自分のペースでいいから、進行させてくれ。
「うん、それで?」
「好きです付き合ってくだ」
「はえぇぇー!!」
 焦るのもほどほどにしろよ!
 なんだその単刀直入っぷり!
 沈黙してただけだぜ僕たち!
「違うだろ! 色々違うだろ! 会話運びとか段取りとか文法とか間合いとか! ゆっくりでいいっつってんだよ! いきなり踏み込んでくるなよ! 一本取られちまう所だったよ!」
「うわ、軌跡くンからこンな突っ込まれたの、私服姿とおンなじで初めてです」
 叫んでしまっていた。
 くりっとした目をしばたかせる毬雲。
「いいから……! 仕切りなおせ。仕切りなおしを要求する!」
 読者が置いてけぼりだ。
「う、うン……」
 吸って。
 吐いて。
 深呼吸。
「だからね、好きで」
「切り込みなおすな! 順を追え!」
「軌跡くン、今日は律儀だな……」
「いつも突っ込み待ちだったのか……? 次は無いと思えよ……」
「……はい」
 仕切りなおし。
 過去をキャンセル。
 僕も呼吸を整えて、ベンチに腰掛けなおす。
「あの、火曜日はごめンなさい。一方的に好き勝手意見言うだけ言って、返事も聞かずに飛び出して。でも、本音だよ。私は軌跡くンに、理由はどうあれ死ンでもらいたくない、です。死なないで欲しいと、思うンです」
「……ですか。まぁ、その意見は確かに伝わったな」
「うン。でも、あの後考えてみて、気付きました。軌跡くンはそれでも、自殺をやめるつもりは無いンだろうな、って。私があの時言った言葉は、聞き入れるつもりないンだろ、って」
「…………、そうだな」
 それは、気付くか。一年間、雑談しあった仲だからな。
 だが、できる事なら気付いてもらいたくはなかったもんだ。
 毬雲からしたら、それはあまり気分の良い発見じゃないだろう。
「どれも私の感傷です。どれも私の言い分だもン、軌跡くンからしたら――」
「どうでもいい」
 先回りして、言葉を繋いだ。断言するように。
「うン……」
 ぐすっ。
 鼻をすする音。
 泣かせてしまったか、と毬雲を横目で見やったが……泣いてはいなかった。既に辺りも大分暗くなってしまったので細かい所までは見えなかったけれど、少なくとも泣いてはいなかった。まだ、セーフティゾーン。野外で壊れられると、それは手におえない。
「……で、どうしたらいいかなって、さらに考えたンです。夜も寝ないで絵を描いて、昼も寝ないで絵を描いて。何枚か絵を描いたけど、あンまり面白い出来じゃありませンでした。でも、クレヨンは素朴さを出すのに向いてるンです」
「そうか……絵を描いてたようにしか聞こえないな」
 お前は絵を描きながらじゃないと、他の事が出来ないのか。
 あと、授業を受けると言う選択肢は無いのか。
 さておき――わかりやすい回路ではある。その結果思い至ったのが、
「それ、で。お付き合いできませンか、って」
 と言う――結論か。
 成る程、理には適っている。
 この水梳軌跡にとって毬雲雛鳴が、同じ学校で同学年の生徒(加えたところで幽霊美術部員同士)以上の意味を持たないのであれば、それ以上の関係になってしまえばいいだけのことである。付き合ってる恋人同士であれば、互いにどうでもいいだなんてことにはならないだろう――と。
「…………さいですか」
「…………どうですか?」
「…………」
 理には適っている。
 だけどなぁ、それだけなんだよ! わかりやすけりゃいいわけじゃないだろうが!
 確かに予想はしていたし予測もしていたし予感もあったが、対応に困るんだよ、本当に! お付き合いとか今時どんな告白の仕方だよ! しかも告白の理由が不純って言うか、見当違いだろ! なんでも恋愛に結びつければ受けると思うなよ! 高校生してますねぇ!
「……高校生と光合成って似てるよな……」
「え? うン、確かに似てますね。小中学生と焼酎が臭え、みたいな……。え、ンぇ?」
「ごめん、超関係なかった……」
 心の声が暴走した。
 しかし、どうしたものか。
 スカートを握りしめてる毬雲の手が見える。コイツのことが好きか嫌いで言えば、どちらでもないが回答だ。面白い奴だとは思うが、それ以上でもそれ以下でもない。面倒な奴だとは思うが、それ以下でもそれ以上でもない。毬雲の方からしてもそうなんじゃないのか。僕たちはそう言う『なんでもない』関係だろう。友達止まりだろう。勢いあまって勘違いするんじゃない。お前はそんな、ありきたりの展開を望むようなキャラじゃ、ないだろう?
 …………、…………。
 沈黙が続く。
 今度は僕が待たせている。
 何故僕は悩んでいる?
 心音はこんなにも静かだ。
 つまり、ドギマギして返答に窮しているわけではない……なら、何故?
 きっと、それは。
 きっとそれは、やっぱり思い知ったからだろう。僕が死を選んだだけで、自殺の選択を知られただけで、こんなにも他人に迷惑をかけている。もし僕がこんな選択をしていなかったとしたら、毬雲は間違って思い違えた告白など選択しなかっただろうし、『なんでもない』間柄を望んで、きっとそのままでいられただろう。けれどこの思考に意味は無い。既に起こっていることで、既に選択は済んだことだ。
 なら、今一度選択をしなくてはいけない。
 思い直して諦めるか、傷つけ直して疲れるか。
 笑顔を見るか、泣き顔を見るか。
 面倒だ……。卯生の奴はなんて相手しやすいんだろう。アイツのせいだとは言え、そう思わずにいられない。
「……ふぅ」
 ここで結論は出せないな。雰囲気的タイムリミット、次回持ち越しだ。
「ごめん、一週間」
「ンぁえ?」
「一週間、貰えるか。返事を考えるから、時間が欲しい」
「……ぅぅ……」
 ああ、泣きそう泣きそう。眉を震わせるな。
 唇をひくつかせるな。
「だから、一週間は死なないって言ってるんだって」
「死なない……」
「一週間はね。毬雲に返事をきちんと言うまで、勝手に死んだりしないから、それで今は勘弁して欲しい。大体方法も思いついたからそろそろ実行に移そうかとしていたところなんだけれど、毬雲の告白は僕にとってそれだけの価値が在ったと言うことで、やっぱり色々考えたりしたいことが出てきたわけで、だから」
 おおお、口が勝手に無責任な言葉を紡いでいる……。
「だから、一週間貰えないか」
「……ン」
 少ししてから。
 毬雲は、頷いた。
「わかった。わかりました。一週間、だね」
「ああ」
「あうぃーく、待ちます」
「……さんく」
 とりあえず安堵に胸を下ろした。今日のところはこれにて決着……。
 どうにか毬雲を泣かせずに断る方法を模索しないとな。考えることが増えてしまった。一週間、七日、百六十八時間。分以下に直す気はしないけれど、猶予はそれだけ、ね。充分とは言えないが、不充分ではないだろう。
 毬雲が立ち上がるのを待って、僕もベンチから立つ。
「帰る?」
「ン。軌跡くン家に泊めてくれるンです?」
「断じて断る。駅だろ? 送るよ」
「あンがとです。……ンへへ」
 へらへら笑いやがって。お前と話している間に、夕方からすっかり夜に食い込んじゃったよ。沈黙時間の長いやり取りだった。無駄、無駄、無駄、だ。
 公園を出る。
 駅に着く。この間十分弱。
「また明日学校で?」
「別のクラスだろ。会うかどうかわからない」
「うーン、じゃ。また明後日、ビブでね」
「おう」
 互いにあらん限り気軽な風に、手を振った。
 その後、振り返るそぶりすら見せずに帰路へつく。

 残り、一週間。






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