こんにちは、狂気です。



「あなたを殺しに来ました」
 開口一番、穏やかな笑みで、そいつはそう言った。
 ある日の午後の、昼下がり。私の部屋の扉を叩く、こんこん、という優しい音に応じてみれば、そこにはそいつがいた。
 生白い顔、細い体、塗りつぶした真っ黒な瞳、スーツ姿に、丁寧な佇まい。
「こんにちは、こんにちは。お邪魔します、あなたの狂気です」
「はぁ……」
 間の抜けた声が出てしまう。
「あの、どちら様ですか? 何のご用で?」
「狂気です。あなたを殺しに来ました」
「頼んでません。お引き取り願います」
「覚えてませんか、あなたが呼んだんですよ」
「私が……?」
 嘘だ。私はこんな奴、知らない。
 そいつはあっけにとられている私の横を、するりと抜けて、かってに上がり込んできた。
「失礼しますよ。よっこらせ」
「ちょ……」
 戸惑い、焦って、引き留める。
 腕をつかもうとして、取り逃す。
 そんな私などお構いなしに、そいつは部屋の中をきょろきょろとしている。シンクに放ったまま洗っていない食器などをみて、ははぁと頷いたりしていた。それだけでも気分が悪いのに、食器に手を伸ばそうとしたのを見て、
「ちょっと、やめてください!」
 いい加減に大声を出して止めた。
「……」
 そいつがこっちを向いた。
 真っ黒な、心底真っ黒な、ブラックホールのような瞳に、魅入られる。
 張り付いた、優しい笑顔。私は嘔吐感に囚われた。
「う……」
「やめません」
 そいつは、シンクから、昨晩私が使った箸をつかんで取り出し、濡れたそれをじっと見つめると、次の瞬間にはためらいなく舐めた。
 柄の部分ではない。
 私が口をつけた部分だ。
「――っ!」
 ぞぞぞっと怖気が走り、とっさに足元にまとめてあった空のペットボトルをつかみ、そいつへ投げた。力いっぱい投げつけた。
 しかしそいつはひょいとかわしてしまったので、後ろの壁にペットボトルはぶちあたる。ぱこん、からから、と、あまりにも空っぽな音がする。
「投げた」
「……う?」
 そいつは箸を元の場所に戻し、転がったペットボトルに近づき、かがんで拾いあげる。
 ゆったりとした動作でそれを掲げ、指で示しながら言う。
「これを、僕に投げましたね?」
「……それが?」
「投げつけましたね」
「それがっ、どうしたんですか! あなたがっ、気持ち悪いことをっ、したから……っ!」
 イライラする。
 そいつの存在自体が気持ち悪い。
 何もしてないのに、追い詰められている気がする。
 本当に、わけもわからず、ひたすら気持ち悪く、いらだたしい。
「違いますね」
「はぁ?」
「投げたかったんでしょう。『ぼく』は『理由づけ』に過ぎない」
「っ!」
 今度はグラスだった。
 ガラス製のコップ、シンクに置いてあったそれをつかみ、私は投げた。
 がしゃん!
 今度は派手な音がして、破片が飛び散る。
 そいつは、またも難なくよけていた。
「また、投げた」
「うぅ……」
 何故か、私はそいつに気圧される。
 底知れない瞳のせいか、気持ち悪い行動のせいか、張り付いた優しげな笑みのせいか、わからない。が、どんどんと落ち着かない気分になっていく。
「でも、やっぱり本当は投げたかったんですよね。投げ捨てたかったんだ。思いをぶつけたかったんです」
「何を……言って」
「これは、確かあなたがご自分で作られた思い出のグラスですよね。思い入れがある。グラスくらい2・3個割れちゃったところで、大した問題じゃない。掃除が面倒だし、多少けがはするかもしれないけれど」
「何を言ってるんですか……」
「だけど、思い出は別だ。だから、あなたは壊したくて、けれど壊せなかった。『理由づけ』が欲しかった」
「…………」
「いかがです? 実際に力いっぱい思い出のグラスを投げつけて、叩き割った感想は。案外、すっきりしないものでしょう――?」
「あんたは何を言ってるんだ!」
 怒鳴った。
 怒鳴らずにいられなかった。
 アパートだし住宅街なのだから、叫ぶべきではなかったけれど、そんなことは言っていられなかった。
「さっさと出て行ってください! 警察を呼びますよ!」
「呼びませんよ」
「私が呼ぶんです!」
「だから、あなたは呼びませんよ」
 そう言って、そいつは小首をかしげるような仕草とともに、一層優しそうに微笑んだ。
 あまりにも動じない様子に、私はまたも気圧される。
「なんでそう思うんです……」
「呼んで困るのはあなただからですよ」
 指差される。
 緩やかに人差し指を、胸のあたりに向けられる。
 まるで、心臓を突き刺されたかのように感じた。
「どういう意味……」
「そのままの意味ですよ」
「……そのままって……、っ!」
 苛立ちがもう抑えられそうにない。
 また別の物を投げつけてしまいそうだ。
 何とかこらえて、私は携帯電話を取り出した。
 キーを押す。
「……呼べないかどうか、見てればいいじゃないですか」
「はい」
 その静かな笑顔を見ていると、どんどん気が立って来る。
 目をそむけるようにして、携帯電話を耳に当て、コールを待つ。
 待つ。
 が、繋がる様子がない。
 ――というより、これは……。
「ほらね」
 携帯電話の画面を確認する私を見て、そいつはそっけなく言った。
 電源が切れていた。
「なっ、えっ……どうやって……」
「どうやっても何も、あなたが今ご自分で電源を切ったじゃありませんか」
「……え」
「電源のキーを長押しして。それから耳に当てた。かかるわけがありません」
「そんな……馬鹿なこと」
 そんな馬鹿なことがあり得るわけがない。
 なのに、否定できない。
 私は、確かに、電源を、切った……?
「な、なんでっ」
「呼びたくないからです。警察なんて」
「なんでっ、なんで、なんでなんで――」
「だって、呼んだら恥をかくだけですからね」
「なんで――」
 などと戸惑いつつ――戸惑ったふりをしつつ、私はうっすらと気がつき始めていた。
 もしかして、もしかしてこいつは――
「だって、『ぼく』なんて本当はいないんですから」
 びくんっ。
 身体が激しく不随意にびくついた。
 悪戯のばれた子供だって、こうはビビるまい。
 そして、耳鳴りがするほどの静寂――
 つばを嚥下し、何とか口を開く。
「……そん、な……」
「言いましたよね。『ぼく』はあなたの『狂気』です。本当は存在しない、虚構の存在です。現実にありもしないものを、あなたは見ている」
「幻……覚……」
「そう、あなたがご自分で作り出した、ただの幻覚です。『ぼく』は」
 そいつは――曰く、私の『狂気』は、両手のひらをこちらに向けて、肩をすくめた。
「だから、他人なんか呼んじゃいけません。恥をかく。それどころか、危険視されるのはあなたです」
「私……」
 心臓がばくばく言っている。頭が混乱する。足元がふらつく。
 幻覚だって……?
 幻覚――まぼろし。
 だって、そんな、それじゃあ私は、
「あなたはとっくに狂ってる」
「――ひっ」
 喉が変な音を立てて。
 呼吸が止まった。
「ひ――ぁ、ぃ、」
「狂っちゃってるんですよ。『ぼく』が見えちゃうなんて、ましてや会話しちゃってるだなんて、狂気の沙汰です。さっさと精神科医にかかって治療をしてもらわないと――」
「ぃ、ぃやっ、いやぁ……いやあああ!」
 頭を抱える。
 爪が食い込む。
 あごががくがくなる。
 けれど、でも、大丈夫、だって、私は――
「く、狂ってない」
「……」
「狂ってない。狂ってない。狂ってません。正常です」
「…………」
「狂っていません」
 そうだ――
 ――正常なんだ、私は。
 病院になんて、行かない。まともだ。
 ちょっと、切羽詰まっているだけだ。
「だから……狂ってないって言ってるでしょう!」
 だんっ!
 踏み抜くような勢いで、足が痛くなるほど、私は床を踏みしめて。震えながら頭を起こし、いつの間にか涙を流している目で、そいつを睨みつける。
 その、涼しい顔を。
「でも、『ぼく』が見えている」
「見えているけれど」
「『ぼく』なんか本当はいないのに」
「あんたは本当はいないけれど」
「それでも狂ってないとあなたは言う」
「それでも私は狂ってない!」
 やれやれ、といった様子で、そいつは首を左右に振った。
「いいでしょう。あなたがそう言うなら」
「消えろ」
「無理ですね。あなたが見たいから、見えているんです。本心から見たくないなら、とっくに消えている――そもそも、現れもしなかったはずですよ。呼ばれたから、願われたから、来たんです」
「違う! 私はあんたなんか見たくもない! 呼んでもいない! 来て欲しいなんて願ってない!」
 私は否定する。
 そうだ、こいつの言うことは正しいかもしれない。
 私は狂いかけかもしれない。
 こいつの存在感は確かにあるのに、間違いなく目の前にいる気配がするのに、なのに同時にこんな奴は存在しない――実在しない、虚構の幻覚であると確信できるのだから。奇妙で、気持ち悪いけれど、言ってることは、正しい――かもしれない。
 けれど『狂気』が言うことが正しいなら『狂気』としておかしいじゃないか。
 否定する。
「私はあんたを否定する」
「いいですよ」
 さらり、と、優しく、『狂気』が言った。
「否定して下さい、『ぼく』を」
「…………」
「あなたが本当に否定できたのなら、『ぼく』は消えてなくなりますし。そしたらあなたは狂人じゃなくなります」
「…………」
 私は、その言葉に、よろめいた。
 気を失ってしまいたかった。けど。
 倒れる、と思った瞬間――『狂気』が腕を伸ばして、身体を支えた。
 ゆっくりと、床に座り込む。
「なんで、支えてくれ――」
「あなたがご自分で踏みとどまったんですよ。『ぼく』は『理由づけ』に過ぎない。今倒れたらガラスの破片で身体を傷つけるかもしれない――だから、本心では『倒れたくなかった』」
「……」
「常識人としては気を失ってしまいたい、こんな状況でもね」
「あんたは……」
 こいつは、『狂気』と名乗って、『理由づけ』だと定義している。
 だったら、そもそもどんな『理由づけ』で現れたの?
「あんたは、なんで、現れたの?」
「言ったでしょう。一番始めに」
 奈落の瞳で私を覗きこみ、薄っぺらい微笑みで優しげに。
 私の『狂気』は今一度告げる。
「あなたを殺しに来ました」
 そうして。
 私と『狂気』との、奇妙で狂ってない、ちぐはぐな日々が始まった。


    ▽    ▽    ▽


「……とにかく!」
 私は自分の頬をはたいた。
 いささか勢いをつけたので、思った以上に痛かった。もちろんその程度のことで『狂気』が消えたりはせず、状況は何も好転していないのだが、とりあえず今やらなくてはならないことを思い出したのだ。
 悠長にナレーションを入れている場合じゃないんだ。
「私は仕事に行かなくちゃならないんだから、手間をとらせないで」
「仕事?」
 そいつは首を傾げる。
「こんな時間からですか? 太陽の南中時刻を経過していますよ」
「イラストのお仕事が入ったの。打ち合わせに行くんだから……」
 上着を選んで身だしなみを整えなくてはならない。通路をふさぐように佇んでいる『狂気』を押しのける。自主的にこいつを触るのは嫌だったが、素直にどくとは思えないのだから仕方がない。
 しかし、さっき不本意ながらも支えられておいて今さらだけど、妄想で幻覚なはずなのに、この『狂気』には触感もあるようだ。もしかしたらそれは、私の症状がより一層深刻であることの証拠でしかないのかもしれないが……と、そんな考察はあとまわし。
 時間が圧しているのだ。
 何を着ていこう。私服で良いとは言われたものの……。
「イラストのお仕事ですか」
 気持ちを切り替えようとした矢先に、口を挟まれた。
「……」
「でも、おかしいですよねぇ?」
「……何が?」
 不愉快に感じながらも、受け答えしてしまう。
「あなた、イラストレーターじゃ、ないじゃないですか」
「…………」
 案の定、さらに不快になる事実を指摘してきた。
 ダメだ、相手にしてはいけない。
「たまたま頼まれたお遊びのようなお仕事なのに、そんなに気合を入れてどうするんですか?」
「……」
 無視してやれば、気にしなければ、こいつなんていてもいなくても同じこと。そうすれば存在を否定することになって、そのうちに消えてくれるはず。
 耳を傾けてはいけない。
「本業はどうされたんです。具合が悪いとか言い訳をして、もう三日も休んでますよね。簡単な、それこそ一時間もかければお釣りが来るような報告書も途中のまま、一週間も書きあげられていない。そっちを優先すべきじゃありませんか」
「……」
 ぎちち。
 つかんだ服が引っ張られ、安物のハンガーが悲鳴をあげていた。
 ハンガーはまだしも、服をちぎるわけにはいかない。
 気づいて手を離す。
「仕事――イラストのお仕事とか言って、逃げているだけなんじゃありませんか? 保留癖、あとまわしにする癖、逃避癖に、時間の浪費癖。そんな調子じゃ、どうせどちらの仕事もろくにこなせませんよ――」
「――五月蝿い!」
 とうとう振り替えって、怒鳴ってしまった。
 相手をしてしまった。
 幻覚に過ぎないというのに。
「時間っ、ないんだから――」
「うだうだと二度寝三度寝なさっていたからでしょう」
「だるかったの! ええそう、生活リズム安定させてない私が悪いのよ。だから黙ってて、お願いだから!」
 なんて、滑稽だ。
 はたからみたら独り言でしかないのに、それが止まらない。止められない。私はかっぱえびせんか。
 何よりその内容が滑稽だ。
「もしかしたら上手くいくかもしれないじゃない! 可能性はあるかもしれない……これを期に、この新しいイラストの仕事を期に、みんな持ち直して、前みたいになんでもなく全部こなせるようになるかもしれないでしょ! 回り道だって、逃げているだけかもしれなくたって、立ち止まって泣いているよりましなはずなの!」
 勢いのまま、まくし立てる。
 情けなくて泣けてくる。
 言葉の空々しさに、身の毛がよだつ。
 激昂して、息が荒くなって、喉が痛くて、背筋が寒い。
 わかっている。『狂気』の方が正しいのだと。だけど、否定する。そうでないと私は……ああ、いけない。時間がないのに。こんな思考を始めることこそが、逃げ、だ。
 しかし『狂気』は手加減してくれない。
「でも、お仕事なのでしょう。もし先方に迷惑をおかけしたらどうなさるおつもりで? もう充分本業の方で同僚に迷惑をかけているというのに。自分勝手な都合で――」
 ごすっ。
 黙って、私は壁を殴った。
 加減を忘れた衝撃に、安っぽい壁が少しへこんだような気もする。遅れて、じんわりと拳が熱くなった。でもそれも、今はどうでもいい。
「……邪魔、しないで」
「…………」
「……ください」
 丁寧語にしてみた。
 それが効いたのではないだろうが、『狂気』は肩をすくめて口を閉じた。
 この期を逃してはならない。
 急いで、外出の支度に入る。
 荷物は用意してある、作品はいくつか持った、服も選んだ。あとは髪をもう少しなんとかしないと……『狂気』のせいでグシャグシャだ。メイクは最低限でいい。顔色の悪さをごまかせるくらいでいい。この際だからしょーがない。すでに遅刻ぎみだが、電車内で身繕いするような無様はいやだ。
 つかの間の一心不乱。
 上着を羽織り、鞄をひっつかみ、靴を履いてドアに手をかけて、不安がよぎり、振りかえる。
 不安の原因は何故かちょこんと正座をしてこちらを見ていた。
「ついてこないでよね」
「はい」
「留守番でも、しててよね」
「はい」
「部屋のもの、かってに触らないでよね」
「はい」
「…………」
 首肯で快く応じる『狂気』に、よけいに不安を掻き立てられた。
「やけに聞き分けがいいじゃないの」
 肩をすくめられる。
「さっき、邪魔をするなとおっしゃったではありまさんか」
「あんたが言うことを聞くようにはみえないんだけど」
「その通り、あなたが正常に生きるのを邪魔をすることが、僕の仕事であるようなものですから」
 そこで『狂気』は楽しそうに言葉をためてから、言った。
「……ところで、お時間はよろしいのですか?」
「!」
 こんなことで――!
 時計を睨みつけ、どれだけ時間を無駄にしたか把握し、胸ぐらにつかみかかるような荒々しさでドアノブを捻りながら、思わず呟いた。
「殺してやりたい……」
「ご自分をですか?」
「……」
 まったく。
 それが出来たらどれだけ良いだろう。
 黙ったままに家を出た。


    ▽    ▽    ▽


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