・ 泡吹き等の命ほらふきなどのいのいち

    第一幕◆子守唄のように。        

    第二幕◆溶け行き一つへ。   

    第三幕◆揺らがぬ鼓動と。

    第四幕◆螺旋なりし偶像。



     第一幕◆子守唄のように。 5


「た、大変なことが見つかった……んだよ」
 次の日、日曜日の午前十一時半の少し前。
 紙燭灯高等学校生には人気の、ちょっとお洒落なチェーン喫茶店シャト・ノワール。そこに集まった――時鏡謡依、続末閾、並尼晦日、千々泡切子、そして今話している掌一文字。集合、飲み物などの注文、昨日の聞き込みの報告、現時点での結論の再確認。滞りなく済ませた後で、期待の掌君が発表する番となった。僕等の囲う多人数用丸テーブルへ、彼は地図を広げる。見れば、啼草市周辺の地図だった。
 緊張した面持ちで、彼は言う。
「こ、古里井さんと同じような例が無かったか、調べてみたんだ。えっと……要するに、引っ越した事になってるけれど、転居先が不明って言う事件のこと、です。それだけだと絞り込めないから、突然に引っ越すことになった件、なるべく最近に起きたもの、って、条件を限定してったんだけれど……うんと」
「一文字、過程の話は良いからよ。なんだ、結論だけ話してくれ」
「うん。掌君がどんな見解を抱いたかを交えながらで良いから、『わかったこと』を話してくれると助かるな」
「あ、ご、ごめん……えっと、うん……。……結論から言うと、古里井さんに似通った事件は何件か見つかったんだ」
「おお」
「掌、マジでパネェー」
 褒められたことでその綺麗な髪をかりかりと掻いてから、彼は地図を示した。
「驚いちゃったんだけど、東京都、って言うか、啼草の周辺で……、良く似た事件が最近起きてそうなんだ。……この……丸が、ついてるところ……。隣町の、枕辺まくらべ市で五件、その向こうの暮数くれかず市で三件。枕辺とぼく達の……ええと、紙燭灯高校が在る啼草、その両方に隣接している逢瀬おうせ市では六件だね。いずれも、ここ一ヶ月の内に発生してる。一番最近なのは、古里井さんの……」
「ふぅん……気になるね。、薄茜うすあか市ではどうだい?」
 啼草から見て枕辺の向かい……つまり啼草に隣接しているもう一つの市を指して、僕は訊いた。そこには丸印が見つからなかったからだ。
「そっちでは、ええと、似たような話は見つけられなかった……はず。じ、時期から見ると左……に、西、かな。そっちに動いてるように、見えるんだ」
「啼草市としては、女苗が初めの事例ってことか」
 成程な、と閾が腕を組む。
 掌君は頷くものの、少し困ったような表情をした。
「う、うん……えっと……で、でもこれは完全……とは言えなくて……」
「どう言うことかな?」
「これがさっき言った……た、大変なことになるん、だけど……。データが、消されてて良くわからない……んだよね……」
「データが消されてる?」
 僕と閾が同時にそう言った。声が揃ってしまって、ちょっと気恥ずかしげにお互いに目を合わせるが、それどころではない。
「ええっと、つまり……、お、主に……突然引っ越すことになったかどうか、なんてことは、公的な記録とかじゃ……判断しきれないから、ブログとか日記とか、掲示板とか……そんなところから集めることになったん、だけどね」
「それが消されてる、ってのか?」
「うん……。このデータを集めてる最中にも、どんどん情報源が消去されてってる感じで……、しかも新規書き込みが、無い、んだよね。話題に飽きたって言うより……わ、忘れちゃってる感じ、かなぁ」
「ケドケド、マジで飽きてるーってカノーセーは否定できないじゃん?」
「確かに、そうなんだけど……忘れちゃってる、ってのは、ぼくがそう感じただけ……なんだけども。じ、実は公的記録の方も、暮数市の物は……残ってないんだ。木曜日――三日前には残ってたけど、今日は、もう……」
「本当かよ」
「マジ? それってどゆこと?」
「そ、れは……消してる人がいる、ってことかな……」
「は? なんで?」
 並尼さんの言葉を選ばない問いかけに、掌君は横に広い体を縮こまらせた。
「わからない、けど……えっと、多分、それは」
「事実の判明に伴う自明な効果――つまり発生した現象についての情報集積、その結果を基盤とした分析・解釈の作業、発展的に生じる原因及び責任追及等、前述の行為によって社会的或いは実利的に損害を被る者等の存在を暗示する。何故なら、積極的にそれら行為を阻害している者共が実在する恐れがゆえだ」
 ここまで聞きに徹していた千々泡さんの、流れるような発言。並尼さんも掌君も首をかしげたままなので、不服ながら千々泡切子担当こと、僕の出番だ。
「掌君が調査して見つかったことは、大体そんなところかい?」
「うん……と、とりあえずは、そう……」
「ありがとう。じゃ、まとめ――として、僭越ながら僕があとは請け負うよ」
 一同を見まわす。
 閾はジーンズに黄色のTシャツ、上着に赤黒チェック柄の厚手シャツ。シャツのボタンは閉じていない。まくった腕を組んだまま、足を投げ出した姿勢で座っている。喫茶店で頼んだのはアメリカンコーヒーのブラック。
 並尼さんは首周り広い空色チュニックに、裾が短いひらひらのスカート、二ーソックスに膝下ブーツ、カーキ色をした腰丈のパーカー付きコートと言う、ティーンズらしい恰好。左手をコートのポケットに突っ込み、注文したオレンジジュースを右手で持って、ストローを咥えている。
 掌君はだぼっとした草色長ズボンに、ほとんど白に近いベージュのセーター。アイスのカフェ・オーレを飲み干し、一緒に注文したサンドイッチの一つを食べているところだった。
 千々泡さんは淡い柄入りブラウスに、黒っぽい吊りスカート、黒ストッキングにシンプルな黒パンプス。それはまるで、何処かの制服みたいに見える私服だった。ミルクと砂糖が溶け込んだブレンドコーヒーを前に、足と手を揃えてちょこんと座っている。
 僕はと言えば、紺色をした折目つき長ズボンに、紫色ハイネック、それからブラックのジャケット。今日の気分は、マイルドなラテ。
 全員がうなずいて了承を示してくれたので、僕は話し始めた。
「まず、僕等の目的の確認。最終的には、先日引っ越してしまった元クラスメイトの古里井女苗さんへ、掌君の気持ちを伝えることになるわけだけど……目下、彼女の現在の居場所を見つけることだ。しかし、引っ越し先とされる場所に、彼女の姿は見当たらない。だから僕等は、引っ越す直前の彼女の状況を確認することにした」
 そして、いくつかの情報検証の結果――
「――結果、ほとんどの状況的証拠――先生方、女子達、ご近所さん方からのお話は、彼女とそのご両親、つまり古里井家が……、『直前まで何のそぶりも見せず』、『突然』に、引っ越していることを示す。にもかかわらず、旧古里井宅は『入念に掃除されたかのよう』に、綺麗に空っぽだったし……、古里井さん本人の性格等を鑑みるに、直前まで何も引っ越しについて触れないと言うのは、考えにくい。噛み合わない、不思議な状況なわけだ。ここまでは良いよね?」
 全員が再びうなずく。
「今日、掌君の頑張りで重要な情報がここに二つ、追加された。一つは古里井さんの不思議なお引っ越しに似通った事件が、他にも、しかも周辺地域――隣町やそこら――で、何件も発生しているらしいと言うこと。もう一つは、それに関連する情報が何者かによって――『消されている』、らしいことだ」
 右手の指を二本、僕は立てる。
「一つ目の情報が示すことは、僕等の追いかけている古里井さんの行方――つまりは、彼女の不可思議な消失は……、もしかしたら、当初の予想よりもずっと大規模な、一連の事件の内の一部かもしれない、と言うこと。二つ目の情報が示すことは、これら事件は偶発的なものではなく、裏に明確な意図をもった誰かが存在するかもしれない、と言うこと。しかも――その『誰か』と、古里井さんの行方を追究する僕等との関係は、言うなれば――」
「敵対関係、か」
 閾が言葉を引き継いだ。
 だらしのない体勢のまま、宙を見つめるようにして言う。
「謡依、お前が問いかけてんのは、今後の動き方についてだよな」
「動き方――ってーと、何?」
 並尼さんがオレンジジュースのストローから口を離し、訊いた。
「いいか。二段階に分けて言うぜ。まずは俺等が、『このまま女苗の捜索を続ける』か、『否』か。そして次に、続ける方を選ぶのなら……、『俺等だけで続ける』のか、『他の連中の手を借りる』のか。ってことだ」
 それを聞いて、とても不安そうな顔になる掌君。眉根をひそめてみせる、並尼さん。千々泡さんは相変わらず何処の吹く風の、無表情だ。
「え、や、やめちゃうの……?」
「ココまで来ておいて、そりゃないっしょー、続末ー!」
「待てよ。結論を急ぐな。別に何も飽きたから手を引くって選択肢が出てきたわけじゃ、ねぇよ。要するに危険な可能性が、無視できないくらいの質量を持って、浮上してきたってことだぜ」
 そう言うことだろう? と言わんばかりに、閾は僕の方を見た。つられてみんなが僕を見たので、閾の言葉に続ける。
「うん。まず、もし古里井さんの件が一連の――市を跨いでの大きな事件の一部だとしたら、僕等の手に負えるとはそろそろ言えなくなる。そして、バックに明確な――敵になりかねない対象が在るかもしれないとなると、下手につつくことになってしまった場合、非常に危険なことになりかねない。何故なら、それは個人ではなく組織であるかもしれないからだ」
「でーもー……」
「古里井さん達は行方をくらましたのではなく、誰かに消されてしまったのではないか、なんて懸念は最初から在った。あまりにも不自然だからね。似たような事件が他にも起きているのなら、むしろそっちの方がすんなり理解が進む。で、仮にそうだとしたら、現在情報操作を行っている存在と同一か、どこかで繋がっている可能性が高い」
「…………」
「明らかな犯罪行為を行っている奴等とぶつかり合うことになる――かもしれない、ってことだよ。忘れちゃいけない、僕等は一介の高校生だ。集団の暴力に対して、対抗しうる手段は、皆無に近い。だから、さ。手を引ける今の内に、判断を下さなくちゃならない」
 すなわち、古里井さんの捜索を続けるのか、打ち切るか、だ。
 僕はそんな風に締めくくり、もはや冷めるところまで冷め切ってしまったラテを空にする。
 沈黙が五分ほど、テーブルを支配した。
 やがて……掌君が小さく何か言い、聞きとれないと思ったのか、もう一度言い直した。
「ぼ……ぼくは、嫌、だな……。古里井さんを、このまま……うん。さ、探したいよ。ぼくは、古里井さんの捜索を、続けたい」
 並尼さんもそれに続く。
「ウチも。おみっちゃん探し続けたいなー。中途半端に終わらせたくない。引き下がったら、おみっちゃんのトモダチで居られなくなる気がするじゃん」
「……、千々泡さんはどうだい?」
「経験から体現される千々泡切子と言う方向性に現状を入力した場合、古里井女苗氏に纏わる怪奇的な状況の解明活動を断念する結論へは傾き得ないだろう。意味するところは継続以外の選択肢は現実的に存在しない事を指す」
 彼女も抜けるつもりはなさそうだ。
「閾は?」
「訊くなよ。ここで諦められるほど器用な性格はしてないぜ。お前はどうなんだよ、謡依」
 薄く笑った視線を受けて、僕も肩で笑う。
「……言わずもがな、ってやつだね。OKだよ。満場一致で、古里井さん捜索を続けよう」
 ほっと胸をなでおろす掌君。並尼さんと閾は頬を緩ませて見せたが、千々泡さんの表情は変化なしだった。
「ただし……、このまま僕等だけで続けるのは難しいと思うね」
「誰かにキョーリョクしてもらうーってコト?」
「うん。最たるものは警察だね」
「警察か」
 閾が悩ましげに顔をゆがめ、席に座りなおした。
「だが、どうやって動かすよ?」
「そこが今後の焦点になるってことだね。掌君が持って来てくれた情報と、僕等が調べた結果を照らし合わせれば、かなり事件性は帯びてくると思うよ。警察の方々を納得させられるほど、危機感を主張すれば――多分、動いてもらえるはずだ」
「どうだろうな……つーか、実は結構ばれたらヤバイ橋渡って、情報集めてんじゃねぇか? 俺も謡依も、一文字もよ」
「えっ? う、うん……まぁ……、言及されると、ちょっと……」
「ウチはラッキー、大丈夫だねー」
「不良女子高生が」
「だからチゲーっつーのー」
 気が抜けたのか、じゃれあうようなやり取りが開始された。
 掌君おろおろ、千々泡さん朴訥。なので僕が、脱線しきらない内に、なだめて話を戻す。
「まあまあ。とりあえずは明日から、法に触れない範囲の情報で、どうやって説得に入るかを考える――ってことで、行動方針は良いのかな?」
「明日から、って。今日はどうするんだよ。ダイエットじゃないんだぜ」
「掌はしたほーが良いんじゃない? ダイ・エッ・トー」
「う、うぅぅ……」
「割とデリケートな話になるし、みんな即答してくれたとは言え、もう一度考えてみて欲しいからね。今日これから動くにしても、まさか今から交番に駆け込むわけにもいかないから……。既出の情報で解釈間違いや抜けてる部分が無いか、確認するんで良いんじゃないかな」
 それに、と続ける。
「僕の方で、話を聞いておきたい相手が出てきたからね。今日の内に連絡して、明日君達に伝えるよ」
 千々泡さんが不意に、こちらを向いた――が、その様子にはみんな気付かない。何故ならみんな僕の方を向いていたからだ。
「話を聞いておきたい相手……って、ダレ?」
「警察関係にコネでも在ったのか、謡依」
「いや。警察関係じゃないけれどね……親戚筋で似たような仕事してる人がいてさ。まー、折角だから訊いておこうかな、って、思ってね」
「す、凄いんだね……時鏡君……」
「別に」
 言ってしまってから、多少ぶっきらぼうな物いいになってしまったことに気付き、取り繕った。
「別に、凄いことはないさ。大統領と知り合いだったとしても、その人が凄いかどうかは別のお話だろうからね」
「そう……かな」
「マジで!? 時鏡、ダイトーリョーとダチなの!?」
「お前は話を良く聞け」
 かたり。
 千々泡切子が、ここで唐突に席を立った。
「永久機関が実現し得ない事は周知の事実であるが、則って述懐するならば生命機関が正常に作動するには然るべき素材の補給、つまり栄養の摂取が必要不可欠である。私は今、自身にその必要性を強く体感している故、貴君等に提案をせずに居られない」
「お腹が空いたのかい、千々泡さん」
「否定する要素は見当たらない」
「あー、そう言えばウチもー。マジなんか腹ペコってゆーか、動いてないのにー」
「昼メシ時だな」
 次々と席を立つ。シャト・ノワールにはランチメニューも存在するので、店を移動する必要はない。とは言え、本格的に混み合わない内に購入してしまった方が賢いだろう。
 僕等は昼食を摂ることにした。
 これからのことを考えると、少し多難ではあるけれども。
 ――今はこれで悪くない。そう思える日曜日の昼下がりだった。



*   *   *



 解散をして夕方前。
 特に何の目的があるでなく、いつもの公園ベンチに閾と腰かけていた。
 彼は煙草に火をつけている。真鍮製のジッポーから炎が揺らめき、白い先端を赤く塗り替える。
「ふぅ……」
 一呼吸。
「私服ってのは、年齢問われる心配が無くて良いぜ」
「でも結構学校の近くだし、見とがめられないとも限らないよ」
「精々気をつけるさ」
 閾はまた煙草に口をつけ、一息吸う。そして紫煙を吐きながら、言った。
「……運命、って在るよな」
「在るね」
 何のことか皆目見当つかなかったので、僕はおざなりに相槌を打つ。
「でも本当は無いだろ」
「多分無いね」
「俺はさ、実はこっち来る前、悪いことをそれなりにやってたんだ」
「ほう……」
 閾が訊かれもしないのに、相手が知らない自分の過去について語り始めることは珍しい。二人きりの時に、どうでもいいことは結構話すんだけれどね。場合によっては、他人の意見によるとどうやら饒舌らしい僕なんかよりも。
 口元へ指を運ぶ閾を見ながら、言ってみた。
「それはどのくらい悪い子だったんだい? サンタさんにプレゼントを貰えないくらいかな」
「……は、見くびんな。そこまで悪い子じゃなかったぜ。サッカーボールを靴下に詰め込んでもらったことだってあるんだ」
 凄いなサンタさん。
「だが……終身刑とかにまでされる悪事には手を出したりしなかったが……、小中学生と言う条件を抜きにしてばれたりしてたら、間違いなく手は後ろに回ってたろうな。指紋取られたこたないけど」
「ふぅん……まぁ、意外な話ではないよ」
 古里井宅へ忍び込んだ時の手際。あれは一朝一夕で身につくものじゃないだろう。素人たる僕の行動を、さりげなくサポートしながらでも、問題無く動ける感じ。
「強盗とか、ウン万レベルの窃盗とか、そんな経験はないけどよ。何にも触らなくたって、人の家勝手に上がり込んでぼーっとしてるなんざ、たとえ中学生だろうと悪戯じゃ済まされねぇよな」
「何か欲しい物が在ったわけじゃないんだね」
「出来たからやった、って感じだな。上がり込み以外にもいくつかあるにはあるが、深刻な実害が発生するようなことは何もしてない。勿論、それが言い訳にはならないことも知ってる。別に……この場で犯罪心理を語ろうなんて気はねぇんだよ。ただ、悪いことしてたって話。自慢ですらない」
「自首をしたいなら交番へ、罪の告白をしたいなら教会へ、赴くことをお勧めするよ」
「どっちの世話にもなるつもりはないわな。だが、あの時――」
 火の色を覗き込むような目つきで、一際大きく煙草を吸い。
「俺の家が焼けたのは運命なんじゃねぇか――と、そう。勘違いした」
 言って、携帯灰皿に吸い殻を封じ込める。
「因果応報だって?」
「そうだな。つっても、そんな理由で親父もお袋もしき――弟も。死んでったわけじゃないだろうけどな。何もかもが焦げ付く臭いに、皮膚が燃えて行く感覚、顔もわからねぇほど重装備なおっちゃんに抱きかかえられて、窓から放り出されて――あとから家族の死を知った」
 閾がライターを取り出した。
 重厚な、ずっしりとした感じの、鈍い黄金色――真鍮製の本格派ジッポー。
 もう一本吸うのかと思いきや、彼はそれを眺めながら両手で弄んでいた。
「全焼の理由は寝煙草――くそ面白くも何ともない、あっけない理由だ。……俺じゃない。親父の寝煙草ってことで……事件は片付いた」
「へぇ……」
「だが、そんなはずはないのさ。何故なら、親父はその日から禁煙を始めてたからだ。本気の禁煙だ、っつってた。証拠にお前にこれをやる――なんてな。そうして俺はこいつを貰った。冴えない親父の、唯一文句なしにカッコ良かった持ち物――ジッポーライター」
 なんだ……それ、親父さんの形見だったのか。
 確かに、閾が持つには古そうなデザインだと思ってたけど。
「けれどももしかしたら、俺達に見せた親父の――決意らしきものは、ただの嘘で。今日だけは良いだろって、こっそり一本吸ったのかもしれない。それこそ運命的因果応報だぜ。……ま、俺は煙草を吸うたび、そんなことを考える」
 ジッポーを弄ぶのをやめ、遠くの空を見て。
 ぽつりと。
「答えなんか出るわけもねぇが」
 閾は言った。
「……君のお父様はなんで、その日から禁煙なさろうと?」
「さーな。俺を改心させるためだったかもしれないな。親父は別に、俺のやってること、知らなかったはずだけど……、なんだったろうな。きっかけとか、在ったのかね」
 とぼけたような仕草。
「だとしたら、成功だったんだろーけどよ。あれ以来、一昨日の忍びこみが初めてだ」
「その年齢で煙草を吸うのも、一応法律に触れていると忠告させていただくよ」
「確かにな。たまに、とは言え……つか、俺の悪徳って中途半端なんだな、どれも」
 詰まらない発見を意図せずにしてしまったのか、閾はそのまま中途半端な笑いを漏らした。
 ふと、思い出したことを訊いてみた。
「そう言えばこの間、泡について話していたじゃないか。あれ、続きとか在るのかい?」
「ん? ……ああ、良く覚えていやがったな」
「僕は義理深い人間だからね」
「自己申告は信用しちゃならねぇと、誰もに教わるぜ。そうだな……ちょうどいい機会だし、話してやる」
 ちょっと待て、組み立てる――と、閾。
 咥えていたココアシガレットが随分短くなっていたので、欠片を噛み砕き、僕は新しい奴を取り出した。ココアシガレットが生産中止になったら、僕は世を嘆き身を儚むことだろう。
 整理がついたのか、話が始まる。
「……言った通り、泡みたいだと人間やこの世界を比喩することは、別段珍しくも何ともない。重要なのは――泡みたいであったところで、それは『何でもない』ってことだぜ。儚いなぁ、寂しいなぁ、と、そのこと自体に欲情するような変態趣味を、俺は持ち合わせていない。感動も感激もしない。それはただ、それだけのこと――こいつもまた、良くある話だ」
「ドライな考え方ではあるけどね」
「家宅全焼したことについて、あれこれ理由やら言い訳やら意味付けやら、死者への弔いやら考えてはみたが、至るところは結局、それらはただそれだけの独立した行いであって、俺の過去の経験自体には、何の影響も及ぼさない。だからと言って今が大事だなんて嘯くつもりもない。何故なら、今現在でさえ、数秒後にはその過去に仲間入りするものでしかないからな――どうしたって大事だとは思えないぜ」
 一拍置いて。
「そんな風に考えているのが、つまり俺って言う奴なんだがよ。これが厄介なことに、最近アイツのことが気になったりしちまって、困ってるわけだ」
「アイツ?」
「並尼晦日、だ。俺、アイツのことが好きかもしれねぇ」
「はぁ……」
 まるで不愉快なことであるような――路上の石を思いきり蹴とばすかのような言い草だった。
 対する僕はと言えば、笑うとか憐れむとか喜ばしいとか不可思議だとか、そんな感覚ではなく、ただただ驚いていた。まさか続末閾に、好きな女の子など居ようとは……、想像だにしていなかったからだ。
 へぇー。
 言われて思い返せば、そんなような気配が無いでもないけれど。
 それは恣意的なものの見方である気もする。
「大切なものが泡ぶくみたいな幻想であったらむしろ嬉しい――そう感じているくせに、他人が好きだなんて笑わせるぜ。って感じだ」
「哲学めいたここまでの流れは、僕に並尼さんが好きだって告げるための、照れ隠しの話の枕だったってことで、良いのかな?」
「ああ、じゃ。それで構わない」
 簡単に肯定した。
 素直な奴だなぁ、君は。変な風にねじくれてたりするくせに。
「しかし何故並尼さんを?」
「あー……」
「昨日話してた、『並尼さんが沈んでいた時』のことでも関係あるのかな」
「ん? ああ、アレか。ま、そうかもな――ってお前、本当に良く覚えてんな」
「ふふ、お褒めに預かり光栄の至りだよ」
「褒めてはいない。いやらしい奴だな、つってんだよ。……謡依になら話したところで、晦日も構わねぇと思うが――誰にも、言うなよ」
「指切りゲンマンでもするかい?」
「お前とやっても楽しくねぇから、やらん。嘘吐こうと思ったときはお前、殴られようと針千本飲まされようと、顔色一つ変えずに吐くだろ」
「酷いなぁ、そんな印象かい?」
「他にどんな印象を抱けってんだ」
 これ見よがしに、閾はため息をついて見せる。
 吐いた分息を吸い込んで。
「何ヶ月か前だな。そこはいいか……別に。晦日が、生みの父親の葬式に行ってきたらしいんだよな」
「生みの……?」
「ああ。実は晦日自身もその時まで知らない話だったらしいんだが、アイツの母親、晦日が二歳だかそこらの時に離婚したらしくって、すぐ再婚。そのまま今に至ってるらしいぜ。お袋さんはそのことを取り立てて晦日に教えるつもりはなかったらしいんだが、元夫の訃報が届いたところで言っちまった――って事情だったらしい」
「複雑な事情だね」
「単純ではないな。そういう経緯で、晦日の奴は……言わば、本当の親父さんの葬式に顔を出してきたわけだ。ちなみにお袋さんの方は行かなかったらしい。まだ、恨んでいるとか、解消できるような問題じゃない、とか……そこはさすがに知らないし、知ってても話さなくて良いよな」
「構わないよ」
「かなり人の少ない葬式だったらしく、晦日はかなり浮いちまってたそうなんだがな。親父さんの顔を見たとき、そこに自分の面影が在るようで、無いようで。ま、それこそ複雑な気分になっちまったそうだ。自分の血の半分はその親父さんの物らしいが、晦日自身は記憶にすら残ってない――他人が想像するには難しい、奇妙な感覚、ってやつだろうぜ」
「ふぅん……」
 彼女の普段のはつらつとした雰囲気からは、想像するのが難しい身の上話だし……その時の気分は確かに追うことが出来ない。一言でも、そのお父様とお話できたのであれば、また違ったのかもしれないのだろうけれども。
「しかし、それで並尼さんは気分的に沈んでしまったのかい? ちょっとばかし順列関係からは外れているような――気がするんだけれども」
「正確にはありゃ――沈んでるって言うよりは、情緒不安定、って感じだったと思うんだけどな。そう、直接の理由はそれじゃなく、お袋さんが元夫の葬式に赴きもしなかったところだろうよ」
「成程」
「それなりに尊敬していた――今はどうだかしらねぇけど――お袋さんだったらしい。今の親父さんのこともな。だが、失望してしまった……とかなんとか。あと、本当の親父さんの方は、どうやら――夢追い人だったらしくってよ。人が少なかった、と言っただろ? 夢追い人で、理解者が少なく、道半ば――しかも、亡くなった原因はその夢追いが高じてだ。晦日の奴も、やっと人生の目標みてぇなもん持てて、頑張り始めてた頃だったってのにさ。そんな現実に直面しちまったわけだ」
「言ってたね、デザイナーだっけか」
「だな。何を信じたらいいのか、わからなくなっちゃったんじゃねーの。良くあるって言えば良くあるシシュンキの悩みだぜ。で――まぁ、俺が部活の帰りに教室寄ったら、晦日と、それから例の女苗が話してたんで、こんな遅くまで何やってんだお前ら、なんて声をかけたわけだな」
「それで、相談に一緒に乗った、と」
「平たく言えば、そんな感じだ」
「成程と言う他ないねぇ」
 人に歴史ありだな。
 二本目のココアシガレットもなくなってしまったので、三本目を取り出すかどうか迷う。
 箱を手の内でくるくる回していたら、元の話の流れを思い出したので、問い質してみる。
「でもさ。そこで君は並尼さんのことを意識し始めたわけかい? 頼る女と頼りになる男の構図でも出来あがっちゃったのかな」
「ん、んー。あー、そのタイミングと言えばそうなんだが。俺は元来、女の綺麗なうなじに目がなくってよ。アイツポニーテールだろ? 実はうなじがキレーなんだよな。しかも染めてやがるから、根元だけ絶妙に黒くてな。ギャップ効果。それでドキッと来ちまった」
 悪戯気な笑いを見せながら、そうのたまう閾。
 なんだよその誤魔化し方……本音だとしても反応に困るなぁ。
「今度着物でも着てもらえば良いじゃないか。あれは首筋が良く見えるぜ、閾君」
「そいつはグッド・アイディーア、だ。謡依君。女苗の件が丸く収まったら、頼み込んでみるとするわ」
「本気かい?」
「悪くないと思うぜ、晦日の着物姿。……それで? 謡依はいねぇのかよ。好きな奴とか」
「おう?」
 そう言う流れかい。
 一瞬奏手が思い浮かんだけれど、それはこの後古里井さん探しの関係で電話をかけなくてはならないから、嫌だなぁ、心が重いなぁ、面倒臭いなぁ、と言う意味で脳裏を掠めたに過ぎない。しっかし、好きな人ね……難題をぶつけてくれる。伏線回収として面白いとはいえ、まさかここで男の子を選ぶ気にはなれない。
「居ないのか?」
「じゃあ……あえて千々泡さんで」
「あえてってなんだ。チャレンジなのかよ。チャレンジャーかお前。って言うか切子って、難易度高いな……なんであいつだよ」
「メガネっ娘が好きでね」
「切子眼鏡かけてないだろうが」
「でも似合いそうじゃないか」
「……そう言われれば、ううむ。そうかも、しれねぇが……」
 腕を組んで唸る閾。
「なら、俺は晦日に着物姿を頼むから、謡依は切子に眼鏡かけてもらうように頼むってことで」
「嫌だよ。なんだいそれ。罰ゲームかい?」
「いや、むしろご褒美なんじゃねぇか? やる気促進の手法だな」
「冗談だろう?」
「くっくっく……、俺が冗談を言ったことが在るか?」
「横ストライプのウィンドブレーカー」
「……おお」
 お前はつくづくいやらしいことを覚えている奴だよ、なんて閾は呟く。それからあのジッポーライターを取り出し、一度蓋を開いてからカチンと戻して――僕に差し出してきた。
「お前にこれを預けてやる」
「へ?」
 一体どういう風の吹き回しだろう?
 ウィンドをブレイクしたんだろうか。
 むしろエアブレイク……、さっきから空気が読めないな。
「良いのかい? これは言わば、君のお父様の形見じゃないか」
「いいんだよ。そんな気分なんだ。俺も少し禁煙してみようと思ってな――ただし。俺が返せって言ったら返せ。即刻即座に間髪入れず、有無を言わずにすぐ返せ。あくまで一時的に、お前に預けるだけだからな」
「ふぅん。別に文句はないし、保管しておくよ」
 受け取る。
 手のひらにすっぽりと収まる、ちょうど良い大きさ。ずっしりとした存在感。鈍く淡く、しかし高貴な輝き。成程、装飾品としてもこれは、申し分ない。矯めつ眇めつ。
「ほう……恰好良いな」
「だろ。使い方はわかるか?」
「使う予定はないけれどね。何、ずっと君の隣りで見てきたさ」
 蓋を開き、がしっと炎を揺らめかせて見せる。
 軽く振るって閉じれば、金属音が灯火を呑み込む。
「そうそう。点かなくなったら、中の綿にオイルを注すんだぜ。ま、わからなかったら俺に訊けばいいか。変な風にして、壊したりなくしたりするなよ」
「しないさ。ありがとう」
「じゃ……帰るぜ」
 閾は、日が落ち青黒く塗り込まれた頭上を見上げ、脚の反動を使ってベンチから勢い良く立った。僕もそれにならう。
「ふふ、お疲れ様だよ」
「なんだっけな、親戚筋に頼りになりそうな奴がいるんだっけか? 連絡頼むな、謡依」
「頼りになるかは怪しいところだけどね。駄目もとってやつさ」
 あーあ、憂鬱だな。
「よろしく。明日は性懲りもなく月曜日がやってくるぜ。毎週毎週ご苦労さまなこった……つーこって、また学校でな」
「また会えることを楽しみにしないでおくよ」
「そのまま返すぜ」
 ぴっと様になる風に手を振って、閾は見るからにお気楽そうな足取りで、帰って行った。
 僕も公園を出て、三本目のココアシガレットをやっと口へ運ぶ。ふと、ライターのことを思い出して、炎を灯してみた。勿論、ココアシガレットに火を点けたりはしないけれど。
 決して固定されない輝きの向こうに、閾の心を視た気がした。
 ……カチン。



*   *   *



「一体何処の誰が謡依ごときなんかに、私へ電話をかける権限を与えたって言うのよ。誅殺してやるわ。アドレス交換はただのお情けに過ぎないってこと、学校で習わなかったの? アポイントメントも取らないで私の携帯に電話を入れようだなんて、思い上がるもんじゃないわ。かける前にちゃんと二礼二拍一礼したんでしょうね。気安い関係みたいに振舞わないで頂戴、迷惑千万なんだから。それで、何の用?」
 ワンコールで電話に出て、名乗りもせずにまくし立てる、我がいとこ――時鏡奏手。
 元気が大変よろしいようで。
「やあ、奏手。ご機嫌斜めだね。60度くらいかな。今の君が六人そろえば、360度の死角無しだろうさ。始めた仕事の方が忙しいのかな」
「なぁにそれ、四角形の内角の和は360度なのとかけてるの? 詰まらな過ぎて部屋の気温が五度は降下したわね。謡依一人で地球温暖化対策ができるでしょうよ」
「さすがは奏手。頭も舌も良く回るね」
「実際回ってるのは目玉の方よ。忙しいったらありゃしないわ。私の日曜日が休日だなんて、思ったりしないことね。そんなこと口にしたら、舌を切られた雀の気分を味わうことになるでしょう。つづらの在りかへ案内しなかったら承知しないわ。用事を聞いてないわよ」
「その君のお仕事についての話なんだけれどね。引っ越したはずのクラスメイトが、実は転居先の住所に存在しないと言う異常現象が起きてるんだ。そのことについて――」
「嫌だわ。協力なんかしないわよ」
「そう言わずにさ」
「知ってるでしょ。私達が扱ってるのは、そのほとんどが一般人の知ってはいけない機密情報なんだから。謡依みたいな羽毛より口の軽い人間に、渡せるわけないわ。それに私なんか所属したてのひよっこしたっぱ下積み段階、ろくな情報なんか入ってこないわよ。目下、倫理観養成プログラムだとか、面白くもない教習を受けている身分なの」
「頼むよ、僕等だって必死――」
「交渉の余地なし。思慮の価値なし。談判は決裂よ」
「ふぅむ……」
 取りつく島もにべも無い。
 どうしたものかな。予想よりもずっと強硬だ。
「用件は以上? だったら切るわよ。ついでに縁も切れたら嬉しいんだけど、なかなかそうは行かない世知辛い世の中よ。精々壮健に、毎日を後生大事に生きることね。その程度祈れるくらいの心の広さは、私も持ち合わせているんだから。もうなるべくかけてこないでね」
「おいおい、ちょっと――」
 切れてしまった。
 手に持った携帯電話から、電子音がむなしく鳴り続けている。仕方がないので、電源ボタンを押して切断した。しかし、これじゃみんなに合わせる顔も無いなぁ……。もう一度電話をかけてみるか、あるいは会いに行ってみるしかないか。
 奏手と話すと疲労がたまるよ。
 などと。
 自室のベッドで考え事をしていたら、さっき閉じた携帯が着信を示した。
「……メールか?」
 差出人は、時鏡奏手。
 件名、『読んだら消すこと』
「…………素直に言えば、ありがたいけれどね……」
 内容は、こんなだった。
『夜に女の子の携帯電話にかけてくるなんか、非常識なのよ。せめて一言くらい謝りなさいよね。
 それに謡依ってば、馬鹿なんじゃないの? たとえ情報を私が持っていたとして、電話なんかで話せるわけないじゃない。盗聴の恐れもあるし、何よりお母さんに聞かれたらどうするのよ。大目玉じゃ済まないんだから。目が回ってるところに大目玉とか、どれだけ眼球好きなのよ。そんな趣味は持ってないんだから、気を付けてほしいわね。
 私だって悪鬼羅刹じゃないから、出来る範囲で協力してあげようと思わなくもないけれど、条件としてこのメールは読み終ったらすぐ消すことね。デリートよ。跡形もなく。返信は不要だから、そのつもりで。肉料理の味付けみたいに、しっかりその点叩き込みなさいよ。
 で、肝心の情報についてだけれど。残念ながら、私はろくすっぽ情報を持ってないと言うのは本当。起きてる事件についての把握すら、出来てない――と言うより、させてもらえてないわ。ただ、関係あるかはわからないけれど――私の住んでる枕辺市周辺で、最近、危険な奴の存在が確認されてるみたいね。
 殺人鬼。
 それも、無差別、凶悪、神出鬼没、物騒な単語で彩られる、超危険な殺人鬼よ。
 現在支部全体で、全力の対応を心掛けているわ。悪いことは言わないから、目立つような余計な真似はしないべきよ。死にたくないならね。
 私の持ってる情報はその程度。まだ罵倒し足りないけれど、このくらいで許してあげても罰は当たらないでしょう。私の方に枕を向けて今日寝なさい』
 以上。
「へぇ……」
 まぁ、古里井さん捜索に関して有益な情報とはとても言えないけれども。危険さを教えてくれただけ、良しとしよう。殺人鬼ねぇ……良くもまぁ、そんなの隠し通せるよ。古里井さん、まさか殺されてはいない……だろうな……。
 携帯を操作して、メールを削除。
 にしても、今日決意を固めてくれたみんなには悪いけれど、それとなく古里井さん捜索規模を縮小してもらった方が良いのだろうか。あるいは早急に、もっと規模の大きい警察機関への委託を考えるべきなんだろう。得た情報を漏らさないで、どうやって説得するべきか……。
 一番無難なのは……。
「……。協力するふりをしながらみんなを混乱させ、他方で秘密裏に捜索を進める……、結論がまとまったところで、警察の方々へ事件を渡す――かなぁ……」
 並尼さんと掌君辺りなら、おそらく僕の手腕で誤魔化すことは出来るのだろうけれど。
 問題は閾だなぁ……付き合いも長いし、勘も頭も悪くない。それに千々泡さんが何より未知数だ。
 よしんば騙しおおせたところで、僕単体でどれほど、情報の獲得と整理が可能か……。
「…………やっぱり、なぁ……」
 どうしたって、奏手と刻深に協力してもらうのが、最良ではあるんだよね。
 仕事の方をどうにか折り合いつけて、力になってくれないものか……。刻深の方だけを説得するにも、彼に対する影響力はどう考えたって奏手の方が上だ。奏手が納得してくれない限り、二人とも動いてはくれないだろう。
 うーん。
「返信は無用、と言っていたけれど、も」
 奏手へメールを打つことにした。
 件名、『お仕事お疲れ様』
 内容は……、さっきのメールについて部外者が気づかないようにすれば良いんだろうな。
『例の件に関してはありがとうとお礼を言う他ないね。大いに助かってるよ。
 ところで、仕事は忙しいみたいだね。同世代として、もう働こうという気概には頭が下がって浮上し得ない。労いと言うわけじゃないけれど、近いうちにどこか行かないかい? 僕なんかが一緒だと興が削がれること甚だしいだろうけれど、羽を伸ばすつもりだと思ってさ。勿論こう言うからには、こっちのおごりと思ってもらって構わない。どうかな?』
 こんなところか……。
「ま、釣れるかはかなり怪しいけれど……」
 駄目もとでも、手は打っておくに限る。
 しばし待つ。
 やがて返信。
 件名、『Re:お仕事お疲れ様』
『謡依にしては良い心がけね。感謝しようなんて気は微塵もわかないけれど、そこまで言うのなら申し出を無碍にするつもりはないわ。
 別に行きたいところなんかが在るわけじゃないし、おごりとか私を舐めてるんじゃないかと憤懣やる方無しなんだけれども、そう言えば近頃気になってる映画が在ったわね。刻深を誘って行こうかとも考えてたけど、あいつ映画とかあまり好きじゃないし。かと言って一人で行くほどでもなくて、ほんの少しだけ頭を悩ませていたところよ。
 それでまぁ、ちょうど良いから、謡依と行ってあげても良いわ。今はまだ分からないけれど、スケジュールで空く日があったら、こっちから連絡するわね。わかった? 私の方から連絡する。間違っても謡依の方からメールとかするんじゃないわよ。
 カミソリリゾットを味わいたくなかったら、破らないことね』
「……おお」
 なんてことだ。
 メールまで禁じられてしまったぞ。一体全体どう言うことだい。カミソリリゾットとか、想像すらできないよ。何かのジョークなのだろうか。
「嫌われてるよねぇ……」
 実際は嫌われてるわけじゃないんだろうけど。
 当事者として、心地良いとはどうしたって言えない。千々泡さんの方が、まだ好感が持てる。
 しかし、まぁ、しかし。
 敵対心やら敵愾心やらがたっぷりてんこ盛りとは言え、近いうちにご機嫌取りのチャンスを得ることには、成功した。駄目もとが功を奏したのだ。上手く取り入って、奏手の協力にこぎつけなくてはならない。そうだな、何かプレゼントでも買って行けば良いのだろうか。
 なんだかんだ言って、物をあげると喜ぶ奴だからね。
 ……髪飾りとかどうだろう。葬儀の場、と言うこともあるだろうけど、この間何もつけてなかったし。
「謡依、夕食ー」
 と、母の呼ぶ声が聞こえた。
「はーい、今行くよ」
 返事はきちんと。
 我が家の夕食は基本的に遅めで、夜の九時頃であることが多い。それは構わないのだが、今日は日曜日――つまり、僕の父親である時鏡揮居が食卓に居る。
 意味もなく緊張させられる父だ。
 時鏡のお仕事については、父のポジションは高いと言える。ならば、彼に協力を仰げば良いのでは、なんて意見もあるかもしれないが、とんでもない。ポジションが高いとは、要するに身動きが取りづらいことも指すし……何より、僕の父なのだ。
 単身で説得出来るとは、到底思えない。
 結局のところ、突破口は奏手からしかないのだ。心して彼女を味方につけよう。
 はぁ……。
「本当に全然そんな気はないのに、恋愛戦略立てているみたいで嫌だなぁ……」
 底抜けにそう思わずにはいられない。
 ため息を一つ吐いてから、父の前で失態を起こさぬよう身を引き締めて。
 日曜夜の食卓についた。





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