・ 泡吹き等の命ほらふきなどのいのいち

    第一幕◆子守唄のように。        

    第二幕◆溶け行き一つへ。   

    第三幕◆揺らがぬ鼓動と。

    第四幕◆螺旋なりし偶像。



     第一幕◆子守唄のように。 3


 次の日、金曜日。活動――古里井さんの行方捜索を開始した。
 僕の担当――先生方への聞き回りの結果は、惨憺たるものだった。誰に聞いても、既出の情報より建設的な物は、何も得られなかった。数字で言えば零だ。やる気がざっくり削られるのを感じてしまった。先生方を恨むとか、自分の無能さを呪うとか、そう言うのではなく……悪いことはしてないのに、掌君に申し訳ない感じだね。
 手順としては二段階。
 一段階目は、普通に古里井女苗の引っ越し先を聞く。このこと自体は難しくはない。もちろんご存知な先生方と、ご存知でない先生方がいらっしゃり、大半は後者に属す。彼らは登録された情報を、わざわざ確認しようとしてくれたりする。が、その場合、待っていたところで得られる情報は一緒だろうし、複数の先生に当たっていることが分かってしまい、話が大きくなりかねない。ので、そんなそぶりが見えたところでそれとなく断っておく。
 ここで新しい話――別の引っ越し先が得られたのなら良かったのだが、世の中そんなに甘くはなかった。
 第二段階目は、その引っ越し先は存在しなかった、と言うことを告げる。これはまぁ、余計に勘ぐられると面倒くさいので……間をおいて調べてみたふりをするとか、実は彼女から物を借りたままで既に調べてみたのだ、とか。適当に誤魔化しつつ(こういう手八丁口八丁は得意分野だ)、話を引き出す。
 以上、大方今日学校にいらっしゃる先生――少なくとも、二年の授業を受け持ってらっしゃる先生方には全員、当たっては見たのだが。
 無駄足だった。
 無駄をつぶすと言う意味で、無駄足ではなかったけれど。
 けれどやはり、古里井女苗の行方をつかむと言う意味では、無駄足だったろう。ここまで聞いて回るのに要した時間は、登校直後から五時限目後の休み時間が終るまで。心中で落胆しつつ、本日最後の授業を受けるべく、教室へ向かった。
「とっきかっがみー」
 教室に入った瞬間、そんな風に促音を交えて、僕の名字を呼ばれた。
 入口付近の女子だった。
「やあ、並尼さん」
「続末から聞かされたんだけどさー。なんかやってるらしいじゃん? 珍しいよねー。ウッソ・マッジ・シンジラレナーイ、ドーテイが許されるのはショーガクセーまでだよねー、キャハハハハハ、って感じー、なんだけど。あ、時鏡ってドーテー?」
「挨拶代わりに面白いことを訪ねてくれるね。そこでイエスと答えれば、驚き桃の木山椒の木、君自身がプレゼントになってくれるって仕掛けかい? ありがたいけれどそれはお断りさせてもらうよ」
「ぷっ。何それー。時鏡ってホント変な奴だよねー。そんな台詞フツー思いつきもしなければ、吹き出さないで言うのもムズイっしょー」
 ケタケタと笑う。
 こう言う会話運びは彼女と何度か話した経験上、少しの危なげもない。
 並尼晦日ならびに みそか
 ポニーテールのヘアスタイルは、進学校である紙燭灯高校ではかなり珍しいことに、黒髪以外に染められている。ほとんど金色に近い茶髪。その茶髪やら、化粧やら。おそらく厳密に生徒手帳を参照すればわかるであろう、校則違反の数々。女子にしては高めの身長。不良少女と称されてやまない彼女もまた、教室に埋もれようの無い特徴の持ち主だ。
 性格は、先の発言からわかるよう……頭の悪そうな、ノリの軽そうな、インドア派が恐れを抱いてしまうような、ある意味普通で粗悪な造形をしている。しかしその実、成績は上位に食い込んでいたり……などと、愉快な設定も持ち合わせていない。見た目の通り、万年最下位争いにいそしんでらっしゃるようだ。何故この学校にいるかは皆の疑問の種である。
 ただ、顔は広く人望は厚い。
 何故か。知ろうとも思わないけれどね。
「でー、時鏡はセンコーから話聞いてたんだっけ? 5963だねー」
「労いどうも。残念ながら収穫は無しだったけれどね」
「そうだったか、謡依」
 閾が僕を見つけて、近寄ってきた。
「晦日の奴も役に立たなくってな」
「はぁー? 何それ、せっかくおみっちゃん探しに協力してあげよーと思ってたのにぃー。続末ってばあり得ない」
「ふざけんな。お前は情報持ってねー時点で用済みだっての」
「ふーん、E-YOに利用して捨てるんだー。ぶーぶー!」
「盛り上がっているところ悪いけれど、授業後にしないかい? 六限目が始まるよ」
「マジすか。休み時間延ばしてほしいんだけどー」
「五月蠅ぇ、席に着きやがれ、不良女子高生」
「ちぇー」
 各自、席に着き、しばらくしたところで授業が開始された。
 授業中。
 数少ない、そのままの教室で行われる現代国語。日本文学についての考察をしたり、読解力を鍛えたりする授業。登場人物の気持ちを推察したり、当時の社会情勢と作者の境遇を照らし合わせてみたり、はたまた漢字類の知識を増やしたりする。
 変わり映えのない授業風景。
 目新しい事のない生徒発表。
 退屈まぎれに、古里井女苗の行方について考える。
 人間一人――いや、家族ごとで彼女は核家族だったはずだから、三人――の、消失。突然の引っ越し。何の事情があってのことだろうか。まさか本当に、住所の伝え間違い――などと言うことなのだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。
 ま、あり得るだろうな。
 けれどそれを考えてみても、今は仕方ない。
 別のケース。登場人物の気持ちを推察してみましょう、だよ。
 例えば……引っ越し先を偽らなくてはいけない状況……。一家そろって借金取りに追われていて、それで姿をくらませた――いやいや、ドラマでもそんな設定はないだろう。もしくは、引っ越しの最中に何かしらの事故に――会ったのなら、ニュースで流れているのだろうし、そもそも引っ越し先が無かったのだった。やはり、意図的にこれが行われたのなら、目を逸らす……隠れる、偽装工作であるとしか考えられない。
 何のために。
 しかも調べられた時点で、怪しまれてしまうと言うのに。……ならば、調べる人間がいない、と踏んでのことだろうか。いやはや、それはずぼらすぎるね。閾じゃないけれど、その内に同窓会とか……そこまで行かなくても、親せき筋とか。調べる可能性のある人間は、いくらでもいる。となると、短期的な処置である――と言う、ことか?
 一時的な行為。
 急場しのぎか。
 そんな偽装工作に、どのような意味があると言うのだろうか。そもそも――古里井家が行ったものなのか、これは。学校への引っ越し申告は、あるいは古里井家に間違いないかもしれないが、誰かに脅されて、と言うケースは…………。
 ……阿呆らしい。
 僕は視線を泳がし、机に向かって息を吹きかけるようにした。
 そんな大事件にそうそう出くわしてたまるものか。
 大体そこまでの物であるなら、僕等がせこせこ蠢いたところで、事態は何も揺るがないだろう。捜索を開始した直後からそんな可能性を探ってみても、くたびれるだけだ。骨を折ってしまったら困る。
 とりあえず、手近な可能性から消していこう。
 それしかないな、と再確認。
 ほどなくして授業が終わった。
 先生が教室を出て行き、教室中がざわめきに飲み込まれる。人間が数十人も集まると、それら発言は言葉ではなく、雑音の集合体なんだなぁ、と感じる。同時に、そんな中でも目標の声が聞こえる――人の言語認識能力――カクテル・パーティ効果と言うんだったかな、などと思ったりもする。
 掃除当番たちの手早い行動。
 かなり適当な感じで床を掃いたりする様子を見ながら、昨日の千々泡さんを思い出しつつも、探したりはあえてしない。掌君は……うん、どうやら今日も待機していてくれそうな雰囲気だ。僕も支度を済ませてしまおう。
 ……さてはて、今日はどうしたものか。
 今日は金曜日なので卓球部があるはずだ。
「閾、部活は良いのかい?」
 教室の人間がまばらになっても移動するそぶりのない閾に、僕はそう訊いてみた。
「ああ。今日は休むってことにしておいた。頭が痛くてな」
「本当かい? 保健室に行った方が良いんじゃないかな」
「仮病だよ。方便とも言うな」
「ネ、ネ、ホーベンって何?」
「目的のための手段。転じて、目的を達成するために良かれと思って吐く嘘。そのくらい知っておけ……っておい晦日、なんでお前まで残ってんだ。さっさと部活行けよ」
「残念でしたー。ウチ帰宅部だかんね」
「じゃ、とっとと帰れ」
「さっき言ったじゃん。ウチもおみっちゃん探しに協力するってー。させろよ」
「おい謡依。俺、本当に頭痛くなってきたんだが……」
「並尼さんの担当は、閾に任せたよ。なぁに、女子の意見を聞く手立てが出来て良いじゃないか」
 僕は軽く笑って、そう言ってみた。
 真面目な話、高校男子だけでは出来ることに限界があるだろう。女性の協力者がいると言うのは悪くはないはずだ――並尼さんがその対象として適当であるか、なんて懸念を別にすれば。
 助け舟らしきものを出した僕へ、彼女がブイサインをして見せる。
「おー、時鏡。話わかるジャーン」
「本気か、謡依? 晦日は頭が弱い女だぜ。その弱さたるや、ヘルメット無しで外は歩けない。通称ローラーブレード女と呼ばれているほどだ」
「その発言は滑りすぎじゃないかい、閾」
「おう」
「ちょ。この人たち何言ってるんだか良くワカンナイんですケドー。翻訳プリーズ」
 ちょっと高尚過ぎたか。なんて。
 はたから聞いていて理解されないジョークに、大した価値はない。そろそろ本題に入るとしようか。
「まぁ……、並尼さんの申し出を歓迎するか辞退するかは、掌君次第だろうね」
「……それもそうだな」
「たなごころぉ? は、なんで?」
 三人して、教室にぽつねんと残っている掌君の方を向いた。彼はなんだか、視線に圧倒されたかのように、怖気づいた顔になってしまう。僕と閾はとりあえずとしても、並尼さんのことが苦手だと言っていたしね。
 彼から切りだすのは難しいと察したのか、閾が口を開く。
「一文字。晦日に協力してもらうか?」
「え、えっと……」
「情報収集の幅が広がると言う点で、並尼さんの参画は有意義だと思うよ。ただ、そうなると事情を一通り彼女へ説明しなくてはならない。それをよしと出来るか、ってことだね」
「うん……っとぉ……」
「は? は? なーに話してるーんすかー? マジ状況読めないんですケド」
 きょときょととする並尼さん。金髪ポニーテールがせわしなく揺れる。
 並尼さん担当に任命された(了承したかは知らないけれど)閾が、面倒臭そうに首をかしげながら彼女への説明を果たそうとする。
「つまり、あー……、晦日。お前は秘密を守れる女か?」
「はあ?」
 その切りだし方はどうなんだい。
 とは思ったけれども、突っ込まず。彼女のことは閾に任せて、僕はそれとなく掃除用具入れを開いてみる。
 がこ。
 誰もいなかった。
 それはそうか……まさか千々泡さんも、二日連続であのような奇行に走ったりはしないだろう。今日は彼女、掃除当番ではなかったはずだし。扉を閉める。
 閾たちは、と言えば。
「いいぜ、なら指切りだ」
「マジで言ってんの? 高校生にもなって指切りとか、ぷぷーっ」
「ああん? 知らねーのか指切り。そんな馬鹿な奴に協力してもらうわけにはいかないな」
「知ってんに決まってるでしょー。舐めんな。受けて立ってやる」
 指切りゲンマンを始めていた……どんな流れだよ。
 掌君は突っ込むわけにもいかず、何だか大変居心地悪そうに傍観をしていた。彼に構うことなく、どうやら二人は本当に指切りをするつもりらしい。やがて二つの右小指が、がっしりと絡まりあった。せーの、と掛け声を閾がかけて、二人で高らかに歌い出す。
「ゆっびきっりげんまーん」
「うっそついたら」
「殴る」
「ぶっ」
「指切ったー」
「待って、続末待って……マジあり得ないんだけど……何、殴るって……」
「んだよ」
 妙なツボに入ってしまったのか、おなかを抱えてぶるぶると震えている並尼さん。
 しかし、殴るとは短絡的だなぁ、閾君……。可能すぎるし。本当に実行しかねないんじゃないか。千回殴るんだろうか。オラオラ言いそうで、ちょっと見てみたくはあるけれど。
 少しの間の後、彼女はとりあえず一通り笑い終えたらしく、
「あー、チョー笑った。不意打ちやめてよねー」
 と、目じりを拭いながら言った。
 ちょっと拗ねたみたいな顔をしつつ、閾は応じる。
「下らねぇことで笑うなよな。受け狙ったわけじゃないんだ」
「落ち着いたみたいだね。いいかい? それじゃ、事情を説明しよう」
 ここでようやっと、口を挿むタイミングを得た。どうやら閾は並尼さんと納得行くだけの契約(?)を済ませてくれたようだし、僕が説明してしまった方がやはり手っ取り早いのだろう。掌君の前で、彼女に一連の流れを聞いてもらうことにする。
 長い話ではないので、数分で内容自体は終わった。
「…………と言ったわけなんだけれどね。協力してくれる気はあるのかい?」
「ふーん。スゲーじゃん」
「すげぇ?」
 何がだろうか。
「うん、スゲー。フツーそっこまで人好きになれないと思うよー。しかも、ちょっちストーカーっぽい気はするけど……掌、何つーの? 自分で動いてる? じゃん。ミョーに髪質良いだけの暗いオタクだと思ってたケド、少し見なおしたわー」
「え、えうん、と。ありが……とう……」
 どぎまぎとしながら、掌君は応える。当惑しているようだ。
 実を言えば、僕は彼女の反応が意外ではあった。勿論、掌君を好意的に受け止めてくれている点で、言うことはないのだけれども。並尼さんの普段の印象から、なんとなく彼のことを笑うか、気持ち悪がるか、すると思ったのだ。
 意外そうな僕の様子も見て取ったのだろうか。染色された髪をいじりながら、弁解するように彼女は言った。
「あー、えっとね。ホラ、そこらへんの奴らさー、真面目に生きてないっつーか。いやマジなんだろーケド、奴らからしたら。体力温存してるってゆーのかなー? 手ぇ抜いてる?」
「手間を惜しんでる?」
「そそ、そんなカンジー。そんなにエネルギー保存しといて、いつ使うつもりだよ、みたいな? なんとなーく生きてやがるってのかな。や、ウチも人のこと言えないんだけどネ、へへ。……だから奴らの詰まんなさが分かっちゃって、ヨケーウゼーってカンジよ。アレ、必死じゃないのかなー。必死にしても、前向きじゃないっつー?」
「成程ね」
 言いたいことは何となくわかった。
 現状維持の延長線上、転落の恐怖ゆえの頑張りを指してるんだろう。切り開こうとしているのではなく、逃避してすがりつくかのような頑張り方。例えば、目的のない……将来の不安から打ち込むような勉学。それを拒否して見せようとして、あるいは彼女のような不良ぶった――言うなれば幼稚で単純で強引な方向転換になったりする現状。
 そのどちらとも違うものを、掌君に感じたんだろうか。
「続末も時鏡も、キョーリョクしてあげてるわけじゃん。ムショーホーシってやつじゃないの、それ」
「無償奉仕って漢字で書けんのかよ」
 閾が良くわからない突っ込みを横から入れる。
「書けるわけないでしょー、そんなのー。ヒトが折角カンドーしてあげてるってのに、邪魔しないでくれますかー」
「そうかよ。悪かったな」
 どうしたんだ閾……、また照れているのか?
 彼はフリーな時間にしては珍しく、椅子を引いて席に腰掛けている。姿勢は悪いけれども。
「ま、そんなトコ」
 並尼さんは勝手に納得して、勝手に話を閉じた。
「なのは良いけれど、結局協力してくれるのかい?」
「おー、するするー。さっきまでのジュー倍やる気でキョーリョクするわー。おみっちゃんともウチ、仲良かったしねー。ツレが行方不明ってのに、手伝わないわけにはいかないっしょ」
「どうも。掌君もそれで良いかい?」
「あ、うん……」
「よっろしくねー、たなごころー」
「よ、よろしく…………おねがいします……」
 出典不明のポーズを取る並尼さんに、尻すぼみになりつつ応じる掌君。彼は彼なりに、褒められたことで思うところがあったのだろう。少しは打ち解けたみたいで良かった。
「と言うわけだね……閾、まずは並尼さんから改めて、古里井さんが引っ越す前の状況を聞くと言うことで――」
「おいあれ」
 遮るように教室前方を指した閾につられて、僕も含めた全員の視線が前を向く。
 教卓が動いていた。
 と言うより、こちら側に――教壇から、最前列生徒の机へ向かって――教卓が倒れ込んで来ていた。
 さながらスローモーションのように……そして、派手な音が響く。
「…………」
「………………」
「……」
「……え、何?」
 三名沈黙。一名混乱。
 倒れた教卓から、女子高生の物とおぼわしき足が、間抜けに突き出していた。続いて手、両腕がにょきっと教卓から生え、ふちを掴んだかと思うと難儀な様子を見せつつ、やがてその上半身を起き上がらせることに成功した。
 誰であろう。
 言うまでもなく千々泡切子である。
 僕ら三人が混乱せずに済んだのは、教卓が揺らぎ始めたあたりから予想がついていたからだ。
「……身体の主に背面と肩、頭頂部の神経が微々たる損壊を訴える程度に刺激されたのを、私は感覚している」
「痛かったのかい」
「否定する要素は見当たらない」
「ちょ……、千々泡……、アンタ何やってんのそんなトコで?」
「貴君等の会話を秘密裏に拝聴すべく我が身をこの木箱――学生等にその知識を教授せしめるがための存在、つまり教諭等がより効率化を図るべく卓として用いる道具――すなわち教卓へ隠密せしめる行為は成功を見たが、聊か態勢の持続に艱難が生じたためこれに変化を加えようと試みた結果、過剰に狭隘たる空間ゆえに均衡を崩し、応対を講じ得ないまま今に至る」
「……へっ?」
「また僕等の話を盗み聞くために教卓に隠れたはいいけれど、バランス崩して倒れたってことだね……」
「否定する要素は見当たらない」
「お前……いや、なんかもういいわ」
「え、あー、笑うトコ、なのかな、ひょっとして?」
 諦める閾に、リアクションに迷い続けている並尼さん。
 眉根を寄せたままひきつった笑顔を浮かべている。手は中を泳いでいた。
 千々泡さんの変人さと言ったら、僕や閾をはるかに超越してるものな……。彼女の突然の奇行に、一般人が対応しきれるとはとても思えない。
 掌君も昨日相手をしたばかりとはいえ、困った様子でいたが、極めて常識的に声をかけた。
「ち、千々泡さん……だ、大丈夫?」
「貴君等の心情を左右せしめるには不足の事態と言えよう」
「不測の事態とかけてるわけだね……」
「否定する要素は見当たらない」
「謡依……、いちいち解説してくれなくてもいいんだぜ」
「なんかさ、うん……仮に僕等の日常が物語だとしたら、読者に申し訳ないと思っちゃってね」
「もっともだ」
 そんな風に言いつつ、僕と閾は教卓と崩れた机を戻しにかかった。千々泡さんはと言うと……いつものように朴訥としていて不透明な、無表情をしていた。あれだけの醜態(?)を晒しつつ、ある意味ではかなりの度量があると言えるだろう。
 僕等が机の整理を済ませている間、残りの三名は手持無沙汰な沈黙に包まれていた。
 手伝ってよ。
「ふぅ。こんな感じかな……でさ。千々泡さん」
「いかなる貴君の質疑にも応答する用意がある」
「お前帰れよ」
 閾が容赦のない言葉を放った。
 掌君がその様子に、目に見えて怯える。
「こらこら閾。少々それは乱暴じゃないかい?」
「いや、こいつに回りくどい言い方をしても、百倍回りくどくなって返ってくるだけだと思うぜ」
「一理あるんだけどさ……」
「否定する論拠が見当たらない。露見してしまった以上、この場に留まるべき理由が存在しないゆえ、貴君の対応に不明瞭かつ不合理な部分は不在と言えよう。服従に些細な抵抗も生じはしない」
 そう簡潔に――ではないが、さらりと一息で述べると、彼女は鞄を持って教室を出て行った。
 なんだ、素直ではあるのだろうか。
「……つか、あの子……何?」
「俺たちに聞かれても困るっての」
「あり得ないくらい変な子だよね? ダヨネ?」
「そうだね……まぁ、気にしないで話を戻さないかい?」
「おう」
「う、うん」
「はーい」
 仕切り直し。
「とりあえず、並尼さんから古里井さんの以前の様子を――」
 ガラリ。
 教室の扉が開いた。
「……ん」
「あれ」
「……はぁ?」
 千々泡切子だった。
 千々泡切子、再・登・場!
 再々降臨と言い換えてもいいかもしれない。
「おい……切子……、帰るんじゃなかったのかよ……」
「帰宅後の再登校を禁止された記憶は残存していない」
「…………」
 君何処に住んでるんだよ。絶対嘘だろう。
「色々思うところはあるんだけど……、あのさ、何かご用事?」
「肯定以外の応答を私は発想し得ない」
「バリエーションを使ってきたね。で、なんだい? 聞ける範囲でなら聞くさ」
「さっさと帰って欲しいからな」
「つ、続末君……」
 うろたえる掌君に、だってそうだろと言い返す閾。並尼さんは処理速度が追いついていないようだ。
 そんな彼らの様子に少しもかまうそぶりを見せず、千々泡さんは言った。
「貴君等の企て――つまり古里井女苗氏に掌一文字氏の心中を伝達すると言う目的の下、現在移転先にその姿の確認できない彼女の行方を捜索すると言う計画に、私――すなわち千々泡切子と称されし一個人の参画を認許して頂けないだろうか」
「……え、何?」
「う、ううん、と……」
「もしかして、とは、思うんだけれども……僕等に協力……したい、ってことかい?」
 彼女は頷いて見せる。
「尽力すると確約しよう」
 爆弾発言だった。
 千々泡切子、爆誕だった。



*   *   *



 並尼さんの話によると、やはり。
 古里井女苗は、引っ越しの少し前どころか、前日でさえ、その雰囲気を漂わすことはなかったと言う。
 普通に授業をこなし、普通に部活(手芸部)の活動をし、普通に談笑し、普通に帰宅して行った――そうだ。確かにこれでは、まるで消失だろう。消失した辻褄合わせに、引っ越したと言われているようなお話だ。
 並尼晦日のネットワークは僕等の想像範囲よりもずっと広いらしく、実に学年の女子の八割方のアドレスを把握しているとのことだ。『紙燭灯高校二年生の姐御』と呼んでもらいたいらしい。誰も呼ばないと思うけれど。さておき、彼女自身、古里井さんとは随分仲良くしていたそうなので、そのネットワークを活用して最大限情報収集を試みてみると言ってくれた。ただし、噂が噂を呼んで大げさなことになるのは避けたい、と、言ったら。
「だいじょーぶ。そうゆー細かい情報操作は、ウチの得意分野だかんねー」
 ……信用ならないけれど、彼女に頼むしかないだろう。
 大丈夫かな。
 掌君は、コンピュータ部と言うこともあって、実はパソコン操作はお手の物らしい。古里井女苗の子の現象と似た事件が、近頃どこかで起きてはいやしまいか。そのことについて調べ、整理し、分析をしている最中だと言う。今日中に他人に見られても平気な段階まで情報を仕分けして、明日のコンピューター部活動時に、友人たちに手伝ってもらうつもりだそうだ。
 それは換言すれば、他人に見られたらまずい情報を扱ってるってことなんだろうけど。
 まぁ、触れないでおいた。
 閑話休題。
 話し合いの結果、やはり旧古里井宅の状態は確認しておきたい、と言う結論に至った。旧古里井宅のご近所さんや、彼女の親戚筋から情報を収集したいのも勿論あったが、家自体がどういう状況にあるかは興味がある。
 しかし、これはどうすれば良いのやら見当がつかない――などと行き詰っていたら。
「簡単だろ。忍びこめばいい」
 と閾。おいおいそれじゃ不法家宅侵入罪だよ、そう突っ込み入れたが止まる様子を見せない。
 正規の手段を取るにしても、難しいのは確かなのだ。家の内部なんてプライバシーの塊だし、警察に頼んだところで市役所に頼んだところで、許可が下りるとは思えない。親戚筋から合鍵でも、どうにかして譲り受ければ――とも思ったが、その可能性も低い。彼女の親戚筋と言っても、祖父母程度しかいらっしゃらず、またここから遠く離れたところにお住まいのようだ。
 会いに行くのも大変だし、合鍵をお持ちかどうかも怪しい。
 かくて青少年達は犯罪に手を染める。
 実際は大分言い合いがあったのだが(半分はついて行こうとする千々泡さんの説得)、閾の勢いを収めることはとうとう出来ず、妥協点として僕が閾について行くことになった。
 今夜決行。
 閾曰く、「善は急げ」だそうだが。善と称して構わない行動なのか、と考えると、かなり疑問が残るところだ。精々、思い立ったが吉日、あたりであろう。並べる言葉として、悪事千里を走る、なんてのも戒めとして添えておきたい。善は急げ、悪は走る。
 事情説明終了。
 以上の推移を経て、僕は旧古里井家の所在している深夜の町へ、閾と待ち合わせに向かっているのだった。
 我が家は父が某時鏡のお仕事につきっきりで、泊りがけである場合が多い。母は母で仕事はしているが、規則正しい生活が守れる程度の忙しさであるので、大抵深夜はぐっすり眠っている。抜け出すことくらいは問題なく可能だ。
 閾の方も、伯母さんとは仲が悪いわけではないが干渉しあう程べったりでもないそうなので、抜け出しても判明はしないらしい。
 ここまではさしたる問題もなく。
 指定の電信柱の下に、私服の閾を発見した。
 服装描写は……女の子相手でもないし、しなくていいか。僕も閾も全体的に暗い色をした動きやすい恰好をしていた。
「やあやあ。遅れてしまったかな?」
「いや。ほとんど時間通り――深夜の一時――最終電車直後だな」
 そう頬笑み、私服のポケットからニコチンの軽い煙草を取り出す。
 長めの髪が邪魔になるといけないと思い、僕はこの場でくくっておくことにした。
「少し時間を置こうぜ。一本吸わせてもらうわ」
「それじゃ、僕も」
「お前のは駄菓子じゃねぇか、謡依」
「ふふ、ココアシガレットを馬鹿にしないでくれ」
「はん」
 知っている人間は少ないが、実は閾は煙草を吸うのだ。決してヘビースモーカーなわけではなく、恒常的に不良のごとく吸っているわけではない。かと言って、呑む、と表現されるほど洒落て吸うわけでもない。身体へ及ぼされる害について、知らないわけでもない。
 ならば何故吸うのだろうか。
「相変わらず君は、煙草を辞めるつもりはないんだね。体に悪いぜ。ココアシガレットにしたら良いのに」
「そんな甘ったるい物は趣味じゃねぇ」
「丈夫な赤ちゃんが産めなくなったらどうするんだい?」
「俺は元から産めねぇだろが」
 閾は重厚な、鈍い黄金色をしたジッポーを取り出す。
 カチン、と流れるような仕草で蓋を開くと、彼の顔と手の辺りを中心に灯りがともる。相対的に、周囲の闇は濃くなったように感じられた。
「前に言わなかったか?」
「うん? 煙草を吸う理由かい?」
「ああ」
「聞いたし覚えているけれど、もう一度聞かせてくれないかな」
「けっ、お前は性格が悪いと思うぜ、謡依」
 煙草に火をつけ、ジッポーの蓋をまた優雅に閉じ、深く息を吸い込んで――吐き出し。
「炎の味を忘れない為――それだけだ」
 くゆり、夜空に溶けてゆく煙を見つめながら、閾は言った。
「何度聞いても恥ずかしい台詞だよねぇ、それ。カッコつけてるなぁ」
「五月蠅ぇよ。お前以外に言ったことはない」
「僕だけしか聞いたことが無い、と言うのがより一層恥ずかしさを助長してると思うんだけどね」
 軽薄に笑ってやってから、僕もココアシガレットを齧る。
 知らない人のために一応説明しておけば、このココアシガレットと言うのはチョコレートの香りをつけられたラムネのようなものだ。きな粉棒を知っていたら、それに近いかもしれない。細長く、6本入り30円程度の、伝統的な駄菓子だ。
 勿論僕がこれを好きな理由は、ただのカッコつけと少しの意地だ。
 あるいはただのジャンキーだ。
「謡依こそ、そんな駄菓子をいい歳になってまで懇意にしてることについて、恥ずかしいと思ったりはしないのかよ」
「お生憎様。そんな段階は中学に上がる前に卒業しちゃってね」
「さぞかし可愛くねー餓鬼だったんだろうな、お前」
「まさか。僕ほど可愛い子はいなかったと思うよ。今でもね」
「てめーは鏡とでも結婚してやがれ」
「そしたら最後には水仙にされちゃうよ」
 心にもない憎まれ口をお互いに叩き合う。いつものやり取りだ。
 やがて、閾が携帯灰皿に煙草を押しこみ、こちらを向いた。
「お互い、今日は学校で大変だったな」
「情報収集はほとんど空振り。並尼さんのお相手御苦労様です。千々泡さんにも参っちゃったね」
「来てねぇだろうな、あいつ」
 周囲をうかがってってみるが、静まり返っている。
 酔っ払いの一人すら、この周辺にはいなさそうだ。いたとして、野良猫くらいのものだろう。
「いないと思うけれどね」
「安心できる情報だぜ。それじゃー……、一丁気合を入れて。今日最後のお仕事と行こうぜ」
「泥棒の気分にさせるのはやめておくれよ」
 旧古里井宅へ向かう。

 そして到着。
 旧古里井宅は、それなりに立派な一軒家の住宅だった。核家族でこれだけの家に住んでいたのなら、わざわざ引っ越すことはないだろうにと思う。表札ははがされていた。一週間程度しか経過していないため、はた目からは人が住んでいるかどうかの判別は難しい。夜は夜でも深夜であるので、電気が消えているのがそれほど不自然ではないし。
 入口には当然のように鍵がかかっていた。
「それで、ここはどうやって突破するつもりなんだい、閾君?」
「まあ、待て。ちょっと周り見張っててくれ」
 閾はポケットから、何やら針金のようなものを取り出した――っておい、シーブズツールと言うか……ピッキングの道具じゃないか。そんな物何処で手に入れたんだ君は。
「通信販売とかで手に入るぜ」
「本当かい。物騒な世の中だねぇ」
「人が消えちまう世の中だしな。確かに物騒だ。――ま、道具があってもコツが要るんだが」
 そう言って無造作に、針金の先を鍵穴に突っ込み、やけに慣れた手つきで揺すり始める。
 ほどなくして、魔法のように扉が開いた。
 君はいったい何者なんだよ、続末閾君。本当に泥棒なんじゃないのかい。
「昔取った杵柄ってやつでな」
 家宅の中へ二人してそっと入る。
「いかにして取ることになったのか、詳しく聞いてみたいね」
 通りを再度確認し、音を響かせないように扉を閉じた。
 内側から鍵も閉める。
 この程度なら、僕にも出来るんだけどね。
「早秋と言うことで、外とあまり変わらず冷えるねぇ」
「ま、な。一軒家の広さと保温性を考えりゃ、数日以上は人が立ち入ってねぇようだ」
 お互いに、ささやくような小声。
「おっと、靴はどうしようかな。靴箱は備え付けみたいだけど……中には何も入っていないね。当然スリッパも無しだ」
「おら、手袋。あと靴の裏にはこれを貼るのさ。そしたら履いたままでいい」
 薄手のビニール手袋のようなものと、ガムテープを取り出す閾。
「はぁん、成程ね……。いざとなったらこのまま走りだせる、ってわけだ」
「おうよ」
 玄関を上がる。
「電気、ガス、あと水道も――おそらく止められているね。通っていたとして、点けるわけにはいかないけれどさ」
「ライトは持ってきたか?」
「ペンライトがあったからね。ちょうど良いだろう?」
「ああ。ただし窓の方には向けんなよ。とりわけ、表通り側にはな」
「はいはい」
 ペンライトのスイッチを入れ、足元から天井まで、くるりと回してみる。閾も小さめの懐中電灯を持ってきたらしく、それを点灯させた。
「こうして見るに――綺麗なものだよね。作りは一般的な二階建築。けれどこの様子じゃ、全部回るのに対して時間はかからなそうだ」
「何も残ってない――ってのは、予想したことだからな」
「……日中なら、ライトをわざわざ持ってこなくても良かったんだけどねぇ」
「冗談だろ。空き巣ってのは、潜入時と脱出時に露見する場合が一番多いんだ。人通りの少ない深夜に家主がいねぇんだったら、その時に入るのが一番適してんだよ」
「そっちこそ、空き巣に例えるのはやめてくれないかな。僕等は何も盗りはしない」
「口数ばっか減らしてても進展しねぇ――手分けして軽く捜索しようぜ。俺は一階、謡依は二階。そうだな――十五分後にこの玄関へ集合だ」
「了解」
 行動を開始した。
 抜き足差し足で階段を上る。
 空っぽの二階へ到達――部屋の数は、四つ程度だろうか。順番に巡ることにする。
 生活感のまるでない、空虚を敷き詰めた雰囲気。長くても一週間の放置では、埃もほとんど積っていない。取り外し可能な家具は残っておらず、床も、壁も、天井も、何も語らない。まるで洗浄されてしまったかのような有様だ。
 暗闇。
 静寂。
 蒸発してしまった住人。
 不気味さを演出し、恐怖を誘発するには十分のシチュエーションだけれども――それにすら、虚しさを感じさせるかのような家の様子だ。
 小さめの部屋……もしかしたら、古里井女苗本人の部屋だったかもしれない。もはや何もなく、他の部屋との区別すらつかなくなった空間をライトで照らして行く内、壁紙に小さな傷跡を見つけた。
 何のことはない、ただの傷跡。
 とは言え、この家が新品ではないことを示す――かつては人間が住んでいたことを主張する、数少ない名残りだ。
 勿論僕は、こんな痕跡から推理を展開できるほどの名探偵脳は持っていない。ドアの付近……僕の腰よりやや低め、となると……焦燥に駆られた朝、焦って鞄の金具でもこすったのだろうか。そんな感じではあるが、違う可能性も大いにある。
 手掛かりとは言い難い。
 ぼうっとしながら、その傷跡を撫でつつ……古里井女苗について考えてみた。
 言葉を交わしたことは、多くはない。
 学校の生徒全員で平均を取ってみれば、それ以上ではあるかもしれないけれど……僕にとっては、特に思い入れのあった人間でもないだろう。記憶に残っている会話……何かあるだろうか。化学の授業だったか、模型を忘れた先生に言われて……出席簿の指運で、一緒に化学実験室へ取りに行ったような気がする。
 けれども、取り立てて特殊な会話ではなかったような。
 いつものように、僕が冗談めいたことを言って――彼女は。
「あっは。時鏡クンは……、何だか浮世離れしてるよね」
 そう言って、可愛らしい笑顔をしてくれたような気がする。
 掌君が好意を寄せるのも、無理からぬ笑顔だったろう。
 斜めに構えた態度を崩さないまま、僕は応じた。
「浮世離れして浮いてるってかい?」
「なぁに、それ」
「ただの面白くもない駄洒落さ」
「ふーん。うんとね、私ってほら……普通じゃない」
「それが本当だったとして、古里井さんが普通だと言うのは、周囲と仲良く出来てるってことだろうから、悪いことじゃないんじゃないかな」
「う〜ん、そうだとしても……、ちょっと詰まらないかな」
「詰まらない?」
「何て言うんだろう……、自分が何処にいるんだか、時々わからなくなっちゃうって言うのかな。普通すぎて、自分だけの物って……持ってない気がするの」
「アイデンティティの喪失かい。モラトリアムの最中には良くあることだよ」
「難しいこと言わないで。それってどういうことなの?」
「大した悩みでも、さしたる問題でもなく――誰にでも、僕にでさえある疑問だから。自己存在の有無について、普通か、そうでないかは、あまり関係ないと思うと、そう言うことさ」
「えー、そうかなぁ……」
「そうだよ。僕は変な人間だと評価されることが多いけれど、それは変な人間がそこにいると表現されているにすぎない……つまり、僕の実在との関連性はない。変な人間が在るから僕が在るのではなく、僕の行動によって変な人間がそこに観測されるわけだね」
「良くわからない……」
「社会、他人、自我に認識、それらの全てが嘘になりかねない虚像であり、デカルトが最後にはコギトエルゴスム――『我思う、故に我在り』にたどり着いたがごとく、物事の実在を問うのは非常に難しい――」
「ごめんなさい、全然ついてけない」
「ふふ、今のはただの意地悪だよ。……ほら吹きの吹くホラ貝の音は、きっと古里井さんも聞こえるだろうね。たとえ離れていたってさ」
「うん」
「その音がきっと僕であり、古里井さんだよ。音は基本的に、聞くことでしか認識ができないね。じゃあ、だからその音が『在る』のか、って言うと、そこは微妙なところだ。大きく力強いほら貝の音ですら――掴めない、触れない、見えもしない、残らない」
「えっと……何かそれって、寂しくない?」
「そうかな。それでも僕等は、音楽を聴ける――謡曲を謡えるし、旋律を奏でられるし、鼓動を刻める。そして順次消えてゆくそれらの全てが、唯一取って二つに下らず、織り重なって心を揺さぶる」
「…………」
「心配せずとも、普通だったとして、君の人生の代打はいないのさ。古里井さん。この瞬間の君の存在が――古里井女苗って題名の音楽が、僕の心を揺さぶり、かような言葉の数々を引き出したってこと。たった今、時鏡謡依君にとって君はかけがえないのさ」
「……あははは」
 どう言ったわけか、彼女はより一層笑って見せた。
 それから、何処となく儚げな表情に切り替えて。
「時鏡クンは、その内どこか遠くへ……、行っちゃいそうだよね」
 なんてことを言った。
 意図するところが判然としなかったので、僕は肩をすくめた。
「どんな意味だい?」
「んーん、意味なんてないよ。先生が待ってるし、急ご――」
 今もまた、僕は肩をすくめる。
 まだあの時の言葉の意味もわからなければ、どうして彼女があんなことを言ったのかすらも推察できない。
 何であれ、現在はっきりしていることは。
「……先に遠くへ行ってしまったのは、君の方だったみたいだね――古里井さん」
 吐息のように呟いて、回想を打ち切り、他の部屋を捜索することにした。
 占めて十五分後。
 閾と玄関で合流する。
「何か見つかったかい、閾? 二階にはNothingがあふれかえっていたよ」
「こっちもそうだぜ。随分徹底した『お引っ越し』だった――と、そう感じざるを得ない」
 とっくに暗闇に慣れた目に、若干落胆した様子の閾が見えた。
「仕方ねぇ――手早く撤収するとしようぜ」
「長居は無用だね」
 外に対して耳を澄まし、小さくドアを開けて確認し、素早く外に出て、ピッキングセットで閾が錠を落とす。通りに躍り出て、不自然ではない程度の歩調でそこから移動し、ある程度離れたところで靴からガムテープをはがす。ゴミ箱は見当たらなかったので、丸めてポケットへ。
 腕時計を確認。
「うーん、始発まであと二時間からあるなぁ……」
「どうするよ。この付近にネットカフェとか在ったか?」
「無いんじゃないかな。探してみようか。カラオケボックスでもあれば、凍えなくて済むんだけどね」
「そうだな――始発で帰って支度して、今日の登校――ってなると、あんまし眠れねぇしな。数時間でも寝られるといいんだけどよ」
「この辺りは住宅街だけど、隣駅が確か繁華街前だったからね。最悪、ひと駅分歩けばどうにかなるんじゃないかな」
「じゃ、その方針で」
 駅の方へ向けて、僕等は歩を進めてゆく。
 沈黙の夜街路。電灯が観客もいないのに、文明の功績を大いに主張している。たまに人とすれ違うが、目すら合わさない。黙々と歩く。
「……しかし」
 ふと、閾が口を開いた。
「何も、なかったな」
「うん、何もなかったね」
「探し始めてまだ二日だが、本当に古里井の奴が俺等の周りにいたのかどうか――怪しくなってきたくらいだな」
「実は幻で、もしくは幽霊で、僕等は揃って催眠にでもかかっていたとでも?」
「まさか、んなことあるかよ」
「そうだよねぇ」
「そうさ。はっはっはっは」
「ふふふふ……」
 からびた笑い声が、闇に染み込んでいった。
「……は。……ま、そいつは冗談だとしても、不気味さは拭えないよな」
「そうだねぇ。かと言って、怖気づくほどでもない。実際、まだまだ古里井家が迅速かつ几帳面に引っ越しを済まし、間違った報告を学校にしてしまったと言う可能性も拭えないさ」
「拭えないところばっかだな」
「大掃除にはまだ早い時期だしね」
「何にせよ、学生様の身分で調べられる範囲は、早くも逸脱しちまいそうだな。……さっきのだって領分を侵してるしよ」
「自覚はあったんだね。まぁ、そうなると――公共機関、警察様方を動かせるだけの異常さを見つけないといけない、ってことになるよね。他人の住民票を、いきなり閲覧するわけにもいかないし……」
「一文字がそのあたりはやってんのかな……。とりあえず、明日っつーか今日はこの辺で聞き込みだな」
「パズル同好会が在るんだけどね」
「休め」
「はいはい」
 閾はここでぐっと伸びをした。
 気持ちを切り替えるように。
「よっし……。さっさとカラオケ探して歌おうぜ、謡依」
「おいおい、寝るんじゃなかったのかい?」
「いーじゃねーか。細かいこと気にすんな。そういう気分なんだよ。数曲付き合え」
「まったく、やれやれだね」
 その夜、何とかカラオケボックスは見つかった。
 妙に盛り上がってしまい、睡眠時間としては使えなかったが。
 学生らしい生活模様だったと言えよう。

 果たして、深夜の不良行為の報いは受けることとなる。
 まだほとんど真っ暗な明け方、我が一家の住まう時鏡家の玄関前に――母、時鏡声音こわねが仁王立ちしていた。
 深夜の冷え込みよりも凍えそうな笑顔で、僕を迎えてくれた。
「それで。謡依くんはこっそりお家を抜け出して、どんな悪いことをしてきたのかしら?」
 次回へ続く。
 時鏡謡依の命運やいかに。





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