考察する少女α




 恋をしたことがない。
 それがわたしのコンプレックス。
 わたしの強烈な劣等感。
 恋をしたことがないのだ。
 恋をすることができないのだ。
 というか。
 そもそも、恋って何?
 それすらわからない。
 ただの好きとは違うこと?
 家族や友達が大切なのと違うこと?
 他人を好きで好きでたまらなくなること?
 片時もその人のことが頭を離れなくなること?
 相手を想うだけで胸がときめいて仕方のない状態のこと?
 ずっと誰かと共に居たいと感じるとか、なんでもないことでも一緒に話したいとか、休日に連れ立って何処かに遊びに行くとか、手を繋ぐとか、キスをするとか、その先へ進むとか……あるいはそうなることを望んでやまないとか。
 にっちもさっちも、一進一退、つかずはなれず。そういうことが恋なの?
 恋って、何を言うんだろう。
 愛とは、明確に違うけれど。
 告白したいほどの激情とか。
 告白されたいほどの、願望。
 皆目、見当もつきやしない。
 わたしには。
 一目瞭然の定義が欲しいと思ったりする。
 こう見えても普通の大学生を謳歌しているわたしの身の回りでは、恋の話には事欠かない。過去の経験から未来の予感、最近の発見まで、あふれかえっていると言っても間違いではない。いわゆる恋バナだ。雑談の一種である。
 楽しいはずの歓談。
 そんな恋バナが始まったとき、交わされる意見はいくつかに大別できる。一つは、「やっぱり恋は良い」。他には、「恋なんてするもんじゃない」。そして、「他人の恋バナは鬱陶しい」。どれにもわたしは当てはまらない。だって恋がわからない。
 どうやらみんな、恋の体験は在るらしい。
 初恋を既に経ているようだ。
 どきどきして、わくわくして、きらきらして、ぐるぐるして。
 がっくりして、どっきりして、げんなりして、はんなりして。
 恋した確信が在るのだろう。
 わたしにはその確信がない。
 いつだって、一人の少数派。
 意見を求められないように、端っこの方で申し訳なさそうに縮こまっている。うっかり矛先を向けられてしまったときは、愛想笑いで適当にお茶を濁して切り抜ける。真面目になっても、恋についてのわたしの発言なんて的を大きく外しているものだから、みんな白けてしまうだろう。折角盛り上がっているのに、それではいたたまれない。
 そんな風に、愛で笑いながら、恋について悩んでる。
 なんで、わたしには恋がわからないのだろう。
 してみたくないわけではないし、ラブコメの漫画もアニメも好きだ。高橋留美子先生の作品なんて、大ファンだ。うる星やつらもめぞん一刻も、ちょっとホラーな人魚の森も、今の連載に至るまで追いかけている。
 色んなことに言えるよう、聞くのや見るのと、やるのとでは大違いなのだろうか。
 ……みんな平気の平左で恋してるのに?
 それじゃぁ、わたしは、できそこないか。
 劣等感とした表現は正解だったと思い知る。
 思い知って……ため息を静かにつく。
 黒板へ目を移して、先生の描いたよくわからない図をルーズリーフに写し始めることにした。哲学の授業は退屈で、わかるかわからないかの平均台を、バランスを取るようにちまちまと進んで行く感じだ。眠くならないために、頭を動かして時間を過ごす。毎週金曜四時限目。すっかり板に付いた、週末の作業だ。
 さてと。
 今さらだけど、名乗っておこう。
 いや。
 今さらだし、どうせこんなのただの独り身の独り言だし、名前なんてどうでもいいかな。うん……個人を特定しなくても、こんな話はまかり通る。読者か聞き手が居たとして、きっとそこに興味は惹かれまい。ぶっちゃけ、特定されたらかなり恥ずい。
 だから、数学みたいに仮定するだけに済ませておこう。
 わたしはアルファ。
 考察する少女、α。
 こんなのは、それで十分事足りてしまう、些細な恋バナもどきなんだから。


†    †    †



 授業終了の鐘が鳴る。
「それ、じゃ。今日は、ここまで。君、来週、ここまで、読んで来て」
 哲学の先生が、独特のテンポでそう告げる。
「ここですか」
「そう。32ページのとこ、ね」
「はい」
 指名された生徒の確認が終わるや否や、先生そそくさと教室を出て行ってしまった。彼はいつだって、生徒より早く帰ってしまう。まぁ、受講者は少ないし、質問するほど熱心な受講者はもっと少ない授業だから、それで困ったことはないのだろう。
 わたしも残りの図を写すのは諦めて、帰り支度に入る。
 机の上に出ているものは、教科書にルーズリーフに筆記用具、あとは腕時計くらいのものだから、あっという間に終わってしまう。しかしその短い間をついて、わたしは声をかけられた。
「よお。授業、聞いてた?」
「あ……うん。意識の半分くらいでだけど……」
「それだけ聞けてりゃ、十分なんじゃね」
 声の主は、屈託なく笑った。
 笑顔が気持ちいい彼の名前は……カイ……χ君としておこう。ギリシャ文字は恰好いい読みが多いように思う。
 χ君は続けて言った。
「あのさ、俺来週のところ、当てられちゃったんだけど」
「うん、そうだったね」
「ちょっと説明してくんないか」
「えっと……、カントの思想についてだよ。教科書の、ここ……」
「ふんふん」
 わたしは、できる範囲で説明をする。
 χ君は人気者で、人付き合いが広い。だから大方、授業中にメールの文面でも考えていたんだろう。こっそり隠れて、携帯電話を開いているのをわたしは目撃していた。面白味のない授業だし、今後に繋がるとはどうしたって思えない内容だから、別にそれをとがめるつもりはない。
 人付き合いの方が、ずっと大事だろう。
 χ君のサークルは、何だったかな。きっと、気さくな彼は慕われてるんだろうな。
「……って感じ……。今の説明でわかった?」
「おう、ばっちり。サンキューな」
「良かった」
「これ、やるよ。さっき生協で買ったんだ」
 新作のお菓子を分けてくれた。
 噛みごたえのあるグミだった。
 ぐにぐにと効果音がする、気がする。
「最近のお菓子は、不思議な味がするね」
「だなぁ。しかしα、お前先生の説明よりわかりやすかったよ。授業やってくんね?」
「え……い、いや、そんなことないよ。授業なんか、無理」
「はは、そっか。だよなぁ……詰まんないクセに出席だけ取んだもんなぁ、この授業」
「あはは」
「……さって、じゃ。俺は部活出ねぇと。またな」
 携帯電話を見て時間を確認すると、χ君はカバンを持って立ちあがった。颯爽とした立ち姿が恰好いい。などと思っている間に、彼は行ってしまいそうだった。
 身軽だなあ。
 サークルじゃなくて、部活なんだ。
「あの……」
「あ、何?」
 χ君が振り返る。
「χ君って、……何の部活、やってるんだっけ?」
「ん? 弓道部」
「へぇ……かっこいいね」
「んなこたねーよ。じゃあな」
 最後にもう一度素敵な笑顔を見せてくれてから、彼は出ていった。
「…………」
 χ君に、好きな人とかいるんだろうか。
 恋とか、してるんだろうか。
 してるんだろうなぁ……。そして、恋もされてるに違いない。魅力的な人だものね。彼女もいるんだろうな。愛とかをささやきあったり。
 でも、もしも……χ君がもしもわたしに恋をしてくれたら、わたしも恋をし返せるのかもしれない。……なんて、そんなお歳暮みたいなものじゃないか。恋は。
 そもそも、想像するだけでもおこがましい話だった。わたしには考える資格すらないし、現実にも可能性はないし、実現したところで困るだけだろう。
 勝手に打ちひしがれちゃった。
「ふぅ……帰ろう」
 気付けば教室に一人。
 わたしもカバンを手に取った。
 教室の戸を開くと、見知った女の子がそこに居た。
 名前は……わたしがαなので、βにしておこう。
 戸を閉じて、お互いに挨拶。
「あ、お疲れー」
「待っててくれたんだ、β」
「うん。モスの新しいバーガーが美味しそうでさ。一緒に行かない?」
「モスかぁ……。いいけど、ファストフードばかりだと、身体に悪いよ」
「たーまーにー、じゃん。それじゃ、行こ」
「うん」
 βにとって、週一は『たまに』らしい。判断の微妙な言葉のラインだと思う。
 彼女は長い髪を後ろでまとめた、可愛い子だ。わたしより身長はちょっと低いけれど、一般的に見れば高い方。流行からはぐれないセンスを持っていて、お洒落。人当たりもいいので、高校時代はとても人気があったらしい。
 わたしとは大違いだ。
「哲学、だっけ? 面白い?」
「うーん。あんまり、かなー。βは心理学か……」
「うん。超面白いよ。αも取れば良かったのにね」
「後期はやってないんだっけ」
「前期取らないと、後期のは取れないってさ」
「なら、来年取ろうかな」
「そうしなよ〜」
 他愛もないお話。
 気の知れた呼吸。
 わたしとβのお家は近かったので、幼いころはよく一緒に遊んだ。同じ小学校に通い、中学校はわたしが受験して私立へ、高校も別々だった。だけど家は近かったし、お互いを友達だと思っていたので、会うことも話すことも多かったのだ。歳を重ねるごとに、その機会は当然失われていったが。
 けれども。
 大学で、また一緒。
 これに関しては、示し合わせたわけでもなく、偶然。わたしたちの実家から通うにはちょっと遠い学校なので、奇妙な巡り合わせだったと思う。わたしが第一志望に受かっていたら、この再会はなかっただろう。落ちてしまった時は残念だったけれど、βと同じ大学だと聞いて、お門違いにも救われた気分になったのを覚えてる。
 つん、と肩をつつかれた。
「あう……?」
「ぼーっとしてたでしょ。αは昔っから、油断するとすぐぼーっとするんだから」
「油断してるんだから、ぼーっとしてるのは当たり前だよ」
「えっ、言われてみれば……じゃなくて、メニュー決めたの? そろそろウチらの番だよ」
 見てみれば、わたしの前に並んでる人は一人だった。
「ええと……」
「次のお客様、ご注文承りますー」
「え。えっと、ええっと……」
「…………」
 βと同じ新作バーガーを注文することになってしまった。
 新作は不当に値段が高い気がするから、避けたかったんだけど。……とはいえ、その程度の出費は、ドリンクを飲んでいる間に雲散してしまうような、些細な後悔である。結局、心を宙に放っていた自分が悪いんだから。
 何故すぐ他のことを考えちゃうのかな……。
 こんな性格だから、一途に想ったりとか苦手なのかな。
「……うー」
「どしたの、浮かない顔して」
「ううん、何でもない。……ただ、予定通りことが運ばないと、人って落ち込んじゃうよね。明確な予定なんかなくったって」
「そう? 予定通りの人生って、きっと詰まんないよ」
「βはポジティブだよ」
「人生山あり谷ありじゃん。それよりさ」
 彼女は話題を変えた。
「明日って、αは暇?」
「明日……土曜日か。授業はないけど、バイトが入っちゃってる。11時から」
「そっかー……。バイト。なんだっけ。ウェイターとかウェイトレスとかだっけ」
 その二択は何のための二択なの。
 突っ込みかけたところで、バーガーが届いた。同じメニューが二人分。店員さんは、「ごゆっくりー」と、おそらくはマニュアル通りに言ってくれた。でもその一言で、くつろぐことを許されたような心地になれる。言葉は不思議。人も不思議。
 店員さんを見送ってから、話を戻す。
「……喫茶店だよ。全国チェーンの喫茶店」
「ふーん。楽しい?」
「そこそこはね。で、何か用があったんじゃないの?」
「あ、そだそだ。洋服買いに行こうと思ってさー。αも一緒にと思って。でも、バイトは日中だよね、11時からだと」
「うん。でも、日曜なら空いてるよ」
「ほんと? なら、日曜日貰っていい?」
「あげるよー」
「やった」
 まるで借り物や食べ物みたいに日曜日を扱って、ちょっと愉快。
 話がひと段落ついたので、ポテトをつまんだりする。
 日曜日にしようと思ってたのはお掃除・お洗濯くらいなものだから、若者らしい予定が入って、むしろ嬉しいくらい。はしゃぎすぎて、月曜日に響かないようにだけ気をつけないと。
「ねえ、α」
「なーに?」
「この新作バーガーどう?」
「わたしは……好きだな。きのこもしょうゆ味も好きだから」
 βは何故か、そこで、複雑な表情をした。
「ん……そう」
「βには微妙?」
「あ、ううん。ウチも美味しいなって思うよ。今作は当たりだね」
 若干、取り繕うみたいな様子だ。
「うん、そうだね」
 適当な相槌で応じるわたし。
 本人が隠そうとしてるのなら、やたら突っ込んで訊くべきじゃない。と、思う。
 それから、少し静かになってしまった。
「…………」
 予想してなかった出費だったけれど、満足できる味で良かった。
「……もぐもぐ」
 店内に流れている音楽に、聞き覚えがある。なんだっけ……最近の流行歌、という感じじゃないけれど。……思い出せない。
「…………」
 ポテトにバーガーのソースを付けて食べる。モスに来るといつもこれをやる。マクドナルドではやらない。なんでだろう……。味の違いかな。それとも、かつてのモスのチラシで紹介されていたからかな。
「………………」
 お店の中は、そこまで混んでいない。お昼時はかなり混雑するけれど、おやつ時も既に過ぎてしまってる頃合いだものね。窓の外はまだ明るいけれど、そろそろお天道様も傾いで横になってしまうんだろう。夕焼けを想像して、いくつになってもあの色合いには心惹かれるな、と感じる。
 恋の色は夕焼け色。とか。
 ないか。
「……あのさ」
「……ん?」
 二人ともあらかた食べ終わったところで、βが言った。
「αは、自分のこと『わたし』って呼ぶんだね」
「……うん。『わたし』。変かな?」
「いや、ちょっと…………他人行儀な気がしてさ」
「……他人行儀?」
「前は、『ぼく』って言ってたじゃない」
「ああ……」
 わたしは失笑した。
 それは小学校くらいのころの話だ。確かに、幼いころの『わたし』は『ぼく』だった。そっか。中学校で学校自体は別々になっちゃったし……、もしかしたらβの前では変わらず『ぼく』と言っていたかもしれない。
 気にしてたんだ、そんなこと。『わたし』に違和感でもあるのだろうか。
「βは小さいときから、『ウチ』って言ってたね」
「えー、別に変じゃないっしょう」
「そうかなぁ」
「ウチは普通だよ」
「そうかなぁ。ま……気になるなら、βの前では『ぼく』にするけど」
「え。うーん」
 βはちょっと首を傾げるようにしてから。
「えー……いや、別に。そんなキャラ使い分けみたいのしなくていいよ。かったるいじゃん。ナチュラルに接してくれれば、それで嬉しいし」
「そっか。ありがと」
 お礼を言うと、βは目線をそらした。
「れ、礼とかされる場面じゃ――何笑ってんの!」
 考えたことは恥ずかしがらずに言うくせに、お礼を言われると照れちゃうβ。彼女は、本当に可愛いな、と思った。それは多分、βがまっすぐだからなんだろう。
 にやにや笑ってあげてたら、βが椅子を引いて立ち上がった。
「そ、それじゃ。日曜の件は、またメルするね」
「うん。楽しみにしてる」
 わたしも立って、二人分のトレイを片づける。
 さっきの店員さんが、にこやかに受け取ってくれた。ただのお仕事なのだろうけれど、親切そうに見える。何気ない真心のしぐさで、人々は繋がっているんだ。誤解とか、期待とか、思いやりとか、思い違いとか。深く探らなければ、ほんわかとしていられるのに。
 今はお隣さんじゃないβと、駅で別れて。
 お店での曲目は結局わからずじまいだったけれど、電車の窓辺で綺麗な夕日と遭遇した。
 恋のなきできそこないでも、いい日はあるものなんだと、少し、救われた気分。
 そんなわたしの日常。


†    †    †




 わたしは国語が得意だった。
 とりわけ、現国のテストはできた。なかでも読解問題はかなりの正解率を誇っていた。
 けれど大学では理工系を選んだ。文理両方ある大学だけど、何故そこで文系に進まなかったかと言えば……、わたしは、怖かったのだ。得意科目に裏切られることが。
 国語が得意だったのは確かだけれど、なんで得意だったのかはわからずじまいだった。よくわからないままに良い点数を取って、努力をした覚えもないのに評価されて、頑張った経験もないのに褒められて、そして羨まれる。砂上の楼閣に立たされているようで、とても居心地が悪かった。その地位に頼っていると、いつの日か崩れてしまいそうで、怖かった。
 だから、逃げてしまった。
 理系科目も苦手という程ではなかった。でも、国語と比べたらはるかに見劣りがして、それなりの痛苦と努力を強いられた。受験校のランクも、国語を視野に入れるよりはいくらか下がってしまった。しかし、努力した分、身になって行く実力を、感じられた。
 その時に、必ずしも初めから何でもできる人が素晴らしいのではない、と思った。
 初めからできる人は、できない人の心がわからない。けれど、できない人が努力をしてできる人になったのなら、他のできない人も理解できるし、導ける。一人の成功じゃなくて、みんなの成功になれる可能性を、持っている。それは多分、凄く大切なこと。
 だけど、どうなんだろう。
 才能を育てるのだって、大切なことなんじゃないだろうか。
 初めからできる人が頑張って、もっとできる人になったなら、新しい人間の可能性を切り開けるかもしれない。誰も到達してないところへ、行けるかもしれない。それが初めからできる人へ寄せられる期待であり……才能ある人は、その才能を伸ばすことが、ゆくゆくはみんなのためになる。それも多分、凄く大切なことだ。
 でもわたしは逃げた。
 自分の才能に我がままに怯えて、自ら摘み取った。
 忍耐をもって接すれば、もっと使いこなせたかもしれない才能を。
 もしかしたら、それは責められるべき罪深い行為だったのかもしれない。……などと、多少ヒロイックな意見になっちゃったけど。まだまだ世間的に見てわたしなんて若いものだし、この先の進路変更だって、不可能じゃないはずだ。
 その保険もあって、文理両方ある大学にしたわけだし。
 わたしも結構、打算的。
 とりあえず……、才能ある人は、その才能を使いこなす努力をする義務を、それなりには課せられているんだろう。ううん、難儀だな。……そして、美しい容姿や健康な体もきっと才能の一種だし、恋をするのは間違いなく才能なんだろうな、と。
 そんな風に、考える。
「綺麗な顔してるっスよね、αさんって」
「……」
 考えたことが、飛んでった。
「はいっ?」
 あれっ?
 お?
「お、おかしなこと言わないでください」
「おかしなことって……真面目にそう思うっスよ」
 明らかに挙動不審に陥った様子を見て、えと……タウ、τさんは少し呆れた表情をした。
 今日は土曜日。ここはわたしのバイト先の喫茶店。午後時のラッシュが一端引いて、ちょっと余裕のできる時間帯だ。それで、同じシフトのτさんが、軽く話を振ってくれたのだろう。
 いっけない、全然聞いてなかったよ。
 昨日もβに不意打ちされたばかりなのに。
「えっと、な、なんでです?」
「なんでって、別に理由なんかねっスよ。あはは、いや、美形っスよねーって思って」
「そ、そうですか……」
 そんなことはないと思うけど。
 意図のわからない話題振りに、戸惑う。
 τさんはバイトの先輩の男性で、人懐っこい表情と、ひょうきんで面白い人柄をしている。バイトを始めたころには大変お世話になった。教え方に擬音が入ってて、丁寧とは言えないものの明るく接してくれるので、なじみやすかった。歳が近く、お互い大学生だからシフトが被ることが多いけど、通っている学校は違う。
「ありがとうございま……す?」
 多分褒めてもらったので、一応お礼を返した。
「いやー、αさんモテるんじゃないっスか? 恋人が一人以上いたりして」
「いませんいません」
 手をぶんぶんと振って、否定する。
 そんなだったら、恋についてなんか悩んだりしてないよ。
「へー。意外っスね」
 サンドイッチの仕込みを慣れた手つきで済ませながら、τさんは言った。
 わたしは一体どんな風に見られているのだろう。自覚と客観はズレがちなものなんだな、と改めて思う。隣の人はいつだって、別の景色を見ているんだ。一抹の寂しさを、グラスと一緒に食洗機へ放り込む。
「ところで、αさん」
「はい?」
「次の今日の夜……じゃ、わかんねっスね。来週の土曜日。バイト仲間で飲みがあるんスけど」
「ああ……ごめんなさい、出席しません」
「そうっスよね。聞いてるスよ。新人さんだから、出て欲しかったんスけどね〜」
 飲み会は、何度か体験してるけれど、どうも苦手。
「あはは……すみません。まだ未成年なので……」
 本当は、恋の話がよく出たりして、居場所がないからだ。
 お酒にも弱いし……、盛り上がるのが下手で、しかも他人の目を気にしてしまうわたしには、すこぶる不向きな空間だと思う。でも、来年以降の言い訳はまだ、考えていない。
「おー、そう言えばそうだったっスね! 若いなぁ、いいなぁ」
「若いって……一歳しか違わないじゃないですか」
「その一歳が大きいっスよ! 一円に笑う奴は一円に泣くのと同じ道理っス」
「そうですかぁ……?」
 適当なことをノリで言っちゃう、いつも通りのτさん。
「τさんこそ、その飲み会でお近づきになれるといいですね」
「へ?」
「θさんと」
「えっ、は、はははっ。そーっスね」
 片想い相手の話を出されて、τさんは照れた風に頬を掻いた。
 シータ……θさんは、この喫茶店ではτさん以上の古株で、テキパキした印象の女性だ。口を閉じてると小柄で綺麗な女の子なのだけど、制服のエプロンをつけるとエネルギッシュな姐御と化す。気風のいい年上美人である。
「……」
 しかし、恋ができるなんて羨ましいな。
 τさんは、好きな人が居るかと訊かれて、首を横に振らなくて済むんだ。
「……θさんのどんなところがお好きなんです?」
 できるなら、恋ってどうやってするのかと、尋ねたかった。
 そんな恥ずかしい訊き方、できないけれど。
「うーん? どんなところって……」
「難しいですか?」
「そっスねぇ……可愛いだとか、話してて楽しいとか、あるっちゃあるっスけど。それよりは、なんつーか……俺は思いこんだら、……こう」
 τさんは、自分の顔の左右で両手のひらを向かい合わせるようにしてから、それを前に倒すようなジェスチャーをした。
「ぐぐっ、て行っちまうタチっスから」
「なるほど」
「好きだから好きなんスよ。あんま理屈じゃねっス」
 理屈じゃない。
 恋に関して……と言うより、人間関係に於いて、よく聞くフレーズ、だと思う。
 だけどどうなのかな。
 人は確かに、理屈で動いているわけじゃないだろうけど。理論や論理はそもそも、動かすためのものじゃなくて、理解するためのもの……理解させるためのものでしょう。理解したいから訊いているのに、そんな返答は、いささか卑怯って気がする。
 それとも、感じろってことかな。
 考えるより感じろ、下手の考え休むに似たりって。
「そうですか……」
「なんスか、考えごとっスか?」
「いえ、」
「あ」
 お客さんがいらっしゃった。
「いらっしゃいませー!」
 τさんはさすがに、切り替えが早い。
「いらっしゃいませ!」
 わたしも若干遅れて対応し、注文を横から耳にする。
 若い男性二人組。もしかしたら学生さんかもしれない。友達同士、歓談でもしに来店したんだろうな。注文内容は、ブレンドコーヒー、アイスレモンティー、コーヒーゼリー。手早くτさんがマグカップをコーヒーメーカーに設置し、レモンティー用のグラスを取り出す。
「αさん、コーヒーゼリーよろしく」
「はーい」
 わたしは冷蔵庫から冷やしてあるゼリーを取り出した。この喫茶店のコーヒーゼリーは、上でソフトクリームがとぐろを巻いている。こいつを恰好いい形に仕上げるのが、なかなか難しい……のです。
 レバーをつかんで、呼吸を整えた。
「ぐにん、ぐにん、ぐに・ぐっ・ぴ、ですよね」
「そ。『ぐっぴー』っスよ」
 擬音で通じる業界用語。考えるよりも、感じろってことかもしれない。
 ……ぐっ・ぴ。
 クリームの先端が、お淑やかにこうべを垂れた。


†    †    †



 恋と愛は違うもの。
 そんなことを言われたことがあると思う。
 誰しも、人生についてそれなりに考えたことのある年齢の、現代日本で育った人たちならば。英語では一括して『LOVE』って訳されるけれど、日本語では別物として扱われる、『恋』と『愛』。違う単語なら、使いどころも自然と変わってくる。使いどころが変われば、意味合いが違ってくる。……なんてことを、わたしが意識し始めたのは、いつくらいからだったんだろう。当たり前だけど、覚えていない。
 でも、覚えていることもある。
 問いかけたところで、言葉と一緒にお茶を濁らされたり混合液のようにあいまいな解説をされがちな、その『違い』について、唯一なんとなくでも理解できる返答をしてくれた人のこと。彼は、わたしにとってなじみの深い頼りになる人生の先輩であり、知人の中でも類まれなる変な人だった。
 当時の説明をほぼそのまま引用すれば、こんな感じだ。
 ――例えば君に好きな人がいるとして、例えばここにケーキがあるとしよう。別に好いてる相手は誰でもいいし、用意するのはケーキでなくてもいい。相手の好物で、君も欲しいようなものならね。さて、このケーキを全て相手にあげたい、捧げたいと思うのなら、それは恋心だ。あるいは、このケーキを相手と一緒に食べたい、分かち合いたいと思うのなら、それが愛情だ。……で、これは君からの愛情なわけだよ――
 縷々纏綿とそうほざいて、勝手にわたしのレアチーズケーキに手をかけた。止める間もなくつまんでいった。なのに、その人は自分のチョコレートケーキを独り占めしていたので、悔しくて今も記憶に残ってる。
 食べ物の恨みは恐ろしいのだ。
 まぁ、それはおいとこ。
 うん。
 そして彼は、こんな風に続けた。
 ――全て捧げたい。そう、恋は盲目、ともいうよね。しかし逆にこう定義するべきかもしれないな。すなわち、『信じて疑わない』ことが『恋』だと。それなら、『信じつつも疑う』こと、そのバランスを見極めることこそが『愛』だね。『疑いつつも信じる』の方がわかりやすいかな。ついでに、恋の逆……『疑って信じない』ことが『憎しみ』だ。もちろん、『信じず、疑いもしない』、『愛』の反対は『無関心』さ――
 なんて。よくぺらぺらと考え付くと思う。
 ある意味、自分なりの考察をきちんと言葉にしてくれる、貴重な人だ。
 他人の哲学を我が物顔で論ずるつもりはさらさらないが、その人との対話は、わたしに今も大きな影響を残していると思う。それが役立つことであれ、そうでもないことであれ、いろいろなことを訊いて、たくさんのことを教えてもらったのだから。
 懐かしくもある。
 恥ずかしくて、今はもう、そんなに腹を割って話せないものね。
 そもそも、その人だってもはや暇な人間ではないし、出会う機会自体が少なくなってしまっていた。だから、かれこれ二年か三年ぶりになるのかな……などと思いながら、今のわたしはバスに揺られている。
 今日は、日曜日。
 ショッピングにβと行くはずだった、日曜日。
「……兄ちゃん、大丈夫だよね」
 当のβは隣で、不安そうにつぶやいた。
「うん……、きっと大丈夫だよ」
 あまり根拠もないけれど、わたしはそうやって応える。
 彼女の不安そうな顔を前にしたら、それ以外言えない。
 βのお兄さん。
 アルファ、ベータ、と来たので、ガンマにしておこうかな……γさんこそが、さっきまで考えていた『その人』だ。ぱっと見はカッコ良かったり、でも実はなれなれしかったり、突飛な行動をしたり、妙に鋭かったりと。独特の雰囲気を持った、変わった人。βを通して、わたしも結構お世話になった。
 これから、久しぶりにγさんと会う。
 どうして急にそんなことになったかというと、さっきβと合流して間もないくらいに、電話があったのだ。なんとγさんが事故にあって、病院へ運ばれたという。ご両親はご用事で遠出しちゃってるそうなので、とりあえずβが病院へ向かうことになったわけだ。
 それにわたしも同行することにした。
 βに頼まれたからでもあるけど、わたし自身の意志でもある。
 γさんも心配だし、βの隣に居てあげたかった。
「大丈夫だよ」
 わたしはもう一度言う。
「あんなに飄々としてる人もいないよ。きっと、ケロリとしてるに違いないって」
「そう……だよね。兄ちゃんだもんね。映画だと、生き残る必然性もないのに何か生き残っちゃってて、やけに人気取っちゃうタイプのキャラしてるもんね」
「うん。それでしかも、いい感じの台詞言っちゃいそうだね」
「そうそう、お前がそれを言っちゃうのかよ、みたいな」
「あはは」
「……ふふ」
 酷い話をしてる気もするけれど、βがやっと、形だけでも笑ってくれた。
 空元気も元気だね。
 ちょっと落ち着いた様子のβを横目に、また少し、γさんのことを思う。会ったところで、どう接すればいいだろう。どんなことを話そうかな……。数年では、あまり人となりに変化はないだろうか。うーん……他にどんなことを言ってたっけ。まだ続きがあったような気がするけれど。
「…………」
 思い出してきた。
 ――しかし、そうするとどうなんだろうね。『疑って信じない』……憎しみは当然一種の狂気だが、裏にあって対となる、恋……『信じて疑わない』ことも、十分狂気だ。狂気は妄想を呼び、自分勝手に膨らんでゆく。が、やがては外気にさらされ正気に負ける。妄想は覚め、リバウンドが起きる。つまり破局さ。狂気であり妄想の動力源である恋は、最終的に残らず破局する。狂信者の最後は死というわけだ。結婚は人生の墓場、とかなんとか言っちゃったりして、要は結婚なんて妄想じゃなくてただの現実ってことだよね。恋の延長線上に存在するものではない、ただの日常だよ。子を産み子孫を残すのは、生物として正常な現象だが、恋は違うな。犬や猫、鳥や魚になったことがないから断言はしかねるけど、おそらく人間特有のもの。人の編み出した娯楽の一つだよ。映画を見たり絵を描いたりするのと同じ、趣味の領域さ。ゆめゆめ忘れちゃいけないこととして、恋をする必要なんかないと知っておいて欲しいものだね。恋などせずとも、日々は営めるのだから。なぁに、映画ファンは他人に自分の好きな名作を勧めるものだろう。かといって観る必要などない。風潮に騙され流されないようにしたまえ――
「……はぁ」
「どしたの、α」
「ううん、よくしゃべる人だったな、って」
「兄ちゃん?」
「そう。そこは変わりなく?」
「あー、変わってないね。相変わらずイミフなことを、べらべらと立て板に水だよ」
「そっか……」
「全く、どっからあの血筋が……って」
 顔を上げるβ。
 つられてバスの表示に目をやると、そろそろ到着しそうだった。
 バスが速度を下げ、敷地内に入り、やがて止まり、病院に着く。日常に近しいようで遠い場所。中でもここは、総合病院――多くの専門家と患者が集まり、不健康をただす空間だ。健康体のわたしは、そんなにお世話になったことがない。
 中に入ると。
 独特の空気がβとわたしを迎えた。
 消毒液のにおい……とまでは断言できないけれど、慣れない香りが鼻を突き、不思議な気持ちにさせられる。普段は外来の方々が多くいらっしゃるのだろうけれど、今日は日曜日。わたしたちのような、お見舞いの人以外はほとんど見当たらない。
 γさんのお部屋を目指す。
 ほどなくして病室の前へ。
 二人で少し顔を見合わせ、
 戸を開く。
 はたして、
 γさんは。
「ん――おやおや、やあやあ、よく来てくれたね」
 にこやかに、
「残念ながら嬉しさを全身で表現するには、万全とはいえない状態だけれどね」
 わたしたちを迎え、
「俺の誇るべき妹のβに、それとそっちはαクンじゃないか。お久しぶり、懐かしいよ。いやぁ大きくなったねぇ――などと親戚オジサンっぽい台詞を吐くようなことはしないし、実際年齢的に、最後に会ったときからそれほど身長は伸びてはいないだろうけれども。うん。こうしてみるに雰囲気が大人っぽくなってるな」
 返答を待たずに、
「個人として完成されつつあるという意味だよ。大人と子供との区別については、歌にされるくらい散々議論されている題材だろうけれど、こと俺に限って言わせてもらうのなら『人格の完成』――それをこそ指して、判別の指標とさせてもらってるよ。ただし、『人格の完成』と『完成された人』とはまた意味が違う。だがここではさて置こう。そう、自らを個人と見做し、また見做されるようになれば、自然と権限と責任が伴うようになる――ゆえに大人というわけさ。誰もが納得な基準だとは思うが、殊更広めようとまでは思わない。個人的な思想だからね。沈黙する権限に、口にした場合の責任、つまり俺は己を大人だと自覚しているという結論だよ。ところで」
 つらつらと話しきり、
「そこに椅子があるから、取り出して座ったらどうだい?」
 そう、くくった。
 確かに相変わらずのγさんのようだった。適度に切りそろえられた髪に、涼しげな、少し浮世離れした雰囲気。相手が女性でも気取って『〜クン』と呼ぶ、そんな人。口をはさむ暇もなく、さりとて早口でもなく、滑らかに言いたいことを言ってのける。いつだって、あっという間に彼は自分のペースに他人を巻き込んでしまうのだ。
 包帯やらの治療跡が見られたけど、顔色は悪くない。
「はぁ、もう」
 βはその様子に安堵したのか、呆れたように肩を落とす。
「なんだ……元気じゃん、兄ちゃん」
「ふぅん、心配してくれてたのかい」
「え、いやっ…………当たり前だろ」
 唇をとがらせて、βは言う。
 可愛らしいそのしぐさに、γさんは大きく笑った。
「はっはっは、悪いねぇ。バイクで走行してたら、服を引っかけてしまったようでね。身勝手にも転倒事故さ。身体をちょっと強めに打ってしまったものの、なぁに、そうかからずに治癒する程度だそうだよ。多少の混乱は生んだが、被害をこうむったのも俺だけだったみたいだし、運が良かったね――もとい、不幸中の幸いが正しいか。いやいやそもそも、運のせいにしてはいけないね。運が良かったとて、注意を怠ったのは間違いなく悪い行いだろうからな。ま、心配をかけた身で言える事柄ではないかもしれないが、安心してくれ。君の兄貴は健在だ」
「ったくもう、確かに舌は全快みたいね」
「おう」
 わたしはやり取りの間に、椅子を出しておいた。βと一緒に、γさんの傍らに座る。
「でも、大事に至らなくて良かったです。γさん」
「本当だよ。ひとまずはそれを素直に喜びたいね」
「原チャリは気をつけろって、みんなに言われてるでしょー」
「返す言葉もないよ。しかし、αクンと一緒に来てくれたということは、二人でどこか出かけてるところだったんだろう。水を差してしまったかな」
「ああ、いえ……ただのショッピングでしたし……ね、β?」
「む……そうだね。兄ちゃん、今度何か埋め合わせしてよね。家に戻ったときでいいからさ」
「承知したよ」
 そういえば、γさんはもうβと同じ家には住んでなかったんだっけ。今は……一人暮らし、でもなかったのだか。何かのベンチャー企業をご友人と建てたとかで、シェアルームでの生活をしているとか聞いたことがある。
 って、それは。
 余裕ありそうな顔してるけれど、大変な状況なんじゃないのかな。
「おや?」
 顔に出ちゃってたのか、γさんがわたしの方を向く。鋭い人だ。
「あ、えっと……お仕事の方は問題がないのかな、と」
「ああ、大丈夫。会社の方は、今ならしばらく俺が抜けてもね。連絡はしておいたし、軌道にも徐々に乗っかってきてるからな。少しは圧迫をかけてしまうだろうけど、それで取り返しがつかなくなるほど脆い状況じゃないさ。――がしかし、だ。ふふん、今回の事故は何から何まで俺の過失だな。格好悪いことこの上ない。ただで起き上がっては、ほうぼうに申し開きが立たないねぇ」
「兄ちゃん、ここんところ働きづめなんじゃないの? 休めってことでしょ」
「それは神様からのお達しかな。まぁ、そうかもしれないけれどね」
 γさんは苦笑した。
「そうだβ。貸してあげた本は読んだかい?」
「あのDNAがどうたらってやつ? ううん、まだあんまり……」
「ぜひとも読んでおくべきだよ、あれは。導入が冗長ならすっ飛ばしてしまえ。面白いところはどうせそこじゃない」
 などと。
 そのまま雑談が始まる。仲の良い兄妹で、見ていて微笑ましいと思う。わたしは一人っ子だから、お兄ちゃんのいるβが羨ましかったなぁ。と、幼いころの懐かしい記憶に浸る。ぽわぽわと。
 二人の様子を眺めていたら。
「αクンは、最近の調子はどうだい?」
 γさんが話を振ってくれた。
「ええと……ぼ、ぼちぼちです」
「ぼちぼちか。ぼちぼちという言葉の意味は知っている?」
「はぁ……」
 そういえば知らない。
「まぁ、調べればすぐわかることだけれどもね。物事の進みが緩やかであることを示すらしいよ。儲かりまっか、ぼちぼちでんなって、つまりはこの間と大して変わりはなく、かといって停滞しているわけでもないってことなんだろうね。おそらく順調であろうといったところさ。由来はなんだろう、それは僕も知らないな。擬音のようにも思えるが、何から着想を得たんだろうか」
「へぇ……」
 意味も知らなかったのに、由来を知ってるわけがないので、相槌だけを打つ。
 知らないままで言葉は使ってるものなんだなぁ。
「そもそも、変化は大抵の場合緩やかなものだよね。劇的な変化は劇的ゆえに、直面することが少ないという事実も含め、緩やかな変化の方こそがメジャーだ。あるいは劇的に見えたとて、それはあくまで弓のしなりのような長い蓄積がもたらした、最終的な瞬間でしかなかったりもするからな。そこへ至るまで力を加え続けるのが困難であると、よく説かれたりするわけだね。弛まぬ努力。素晴らしい」
「…………」
「兄ちゃん、αが反応に困ってるよー」
「おや、すまない」
「あぅ、いぇ、そんな、そういうわけじゃないんですけれど、面白いお話だと思います」
「ふふ、相変わらず優しいね。確かに不必要なほど遠まわしになってしまったしな。ふむ――要は、俺のまだそう長いとは主張しづらい人生経験においてでも感じたこととして、緩急にかかわらず変化は受け身で享受すべきではない、ということを言いたかったんだ」
 γさんは一端言葉を切った。
 βは少し首を傾げながらも、聞き流しているみたい。
 間を繋ぐようにわたしが訊いた。
「……待つばかりじゃダメとか、そんなことですか?」
「うんうん。至極わかりやすく端的に言ってしまえば、そうだ」
 理解を得たとばかりに、頷かれる。
「人にとって価値のある幸福は、充実だというのが俺の持論なんだが。すると、待っているだけでたまたま状況が進展し幸福を得たなんてのは、宝くじに当たったようなもので、充実がそこになく、価値ある幸福ではない。――いや、実際宝くじを当てようとするなら、結構な労苦があると思うけれどさ。あれはちょろっと買って当たるような、温い確率じゃないから。幸運は幸福とは限らないってところだね。ま、つまるところ、然るべき代価を支払わずに得た幸福には、中身がない。無論、『機を待つ』のは人生必要だろうけれど……人事尽くして天命を待つ、のでもなければ、施してもらおうなどと甘い考え方はなるべくしないべきだ。どうせそうして得た施しに、大した価値を後から感じることは難しい。なおさら、もとよりそれなりに恵まれている俺たちなんかはね」
「自分から動けと」
「うんうん」
 一言で済むじゃん。心の中で突っ込み。
 βはやれやれと首を振った。
「はーぁ……長々と。何が言いたいのかと思えば」
「いや、久しぶりに会ったからさ。年長者ぶって説教じみたことを言ってみたくなったんだよ。ためにならなかったかな」
「兄ちゃんの話が役に立ったことはほとんどないよ」
 γさんはおどけるように肩をすくめて応じる。そんなジェスチャが、この人にはよく似合うのだ。振る舞いを恰好よく見せるコツってあるのかなぁ。取り留めもなくそんな風に考えていたら、隣でβが「あ」と、席を立った。
「そろそろ、帰った方がいいかな」
「いや、面会時間はまだまだ平気だと思うよ」
「兄ちゃんと話してると疲れるんだよ。もとい、ちゃんと養生して治せって言ってるの。大事に至らなくて良かったけどさ。ただでさえ、父さんや母さんに心配かけてるんだから」
 椅子をかたすβにたしなめられ、両手のひらを見せるようにするγさん。
「なるほどね。気遣いがありがたいや。それじゃ二人とも、帰り道には気を付けてほしいと心底願うよ」
「今の兄ちゃんに言われると真実味があるよ。またね」
「またです、γさん」
「おう」
 わたしたちは気楽に挨拶をして、病室を出た。
 そのままゆるゆる帰路に着く。
「元気そうで良かったね、γさん」
「ほんっとだよー、もーぉ」
「ぷ」
 大げさに天を仰ぐようなβがおかしくて、わたしは吹き出してしまった。それから、ふと気になったことを訊いてみる。
「γさんって……彼女とかいるの?」
「兄ちゃんに? あー……いると思うよ、まだ、多分」
「へぇ……」
 恋は人生に必要ない、と言っていたγさんにも、彼女はいるんだ。
 ……そっか。
「何? 意外? だよねぇー。ウチも初めて聞いた時は驚いちゃったもん」
「えっ、うんと……いや、その人はお見舞いに来てないのかな、って」
「ああ。どうだろ……会社に連絡入れてないってことはないだろうから――と、あの会社興したメンバの一人らしいんだけどね、その人――だから、知らないってことはないと思うけれど……。でも。うん……」
 ぶつぶつ言いながら、腕を組んでしまうβ。
「う、うん?」
「んやー、会ったことあるんだけど、あの人も不思議な人だったから……。そういう意味で、兄ちゃんとは相性良さそうだったんだけどさー。一般のジョーギで測らない方がいいかな、って」
「不思議な人かぁ」
「うん。印象とか雰囲気とか話し方とか、全体的にふわふわってしてるんだけど、天然って感じなんだけど。だけどだけど、話す内容はすごく的確で、論理的で、シンプルな……なんていうか、芯だけえぐり抜くみたいな。きっと、やたら頭いいんだろうね、匂わせないだけで」
「あはは、確かにγさんと相性良さそう」
「でしょー。だから多分、兄ちゃんが少し抜ける分の対応とかをみんなで決めた上で、報告兼ねて来るんじゃないかなぁ。冷静に効率とか考えると」
「なるほどね。そっちの方がγさんも安心できそうだしね」
「そそ」
 話を聞いていると、情に薄い人というより、相手にとってどうしてあげると良いのかを考えられる人のようだ。他人の意図を察するのが得意で思慮深い、けれど煙に巻くような態度のγさんと、お似合いな感じ。
 会ってみたいなぁ。
 その人についておしゃべりしてるうちに、バス停に着いた。次のバスが来るまで、十分ほど時間があるみたい。ベンチに腰かけて待つことにした。
「これからどうしようか、β」
「うん? うーん」
「これからショッピングに戻るのも時間的に厳しいし、今日は諦めた方がいいかな、って思うけれど」
「む〜、そう、だね。うん……ま、折角だから、どこかでお茶してかない?」
「いいね。そうしよ」
「やった」
 βが嬉しそうに、両手を上げた。それを見て、わたしも笑う。
 可愛いその笑顔が大好きなのだ。


†    †    †



 恋に恋する乙女。
 自分を乙女と呼ぶのは少しばかり抵抗があるけれども、今のわたしはもしかしてそういう状況なのだろうか。『愛しの誰か』ではなく、『恋そのもの』のことが頭にこびりついて離れないし、そのことについて考えてばかりいて、それが恋なのだとしたら、あまりに言葉の通りだ。でも、もしそうなら、既に自分は『恋してる状況』、『恋を経験してる状態』なわけで……つまり『恋とは何か』という問いにも答えちゃってて、『恋をしたことがない』という悩みも解決しちゃってて……頭がぐるぐるしてきてしまう。トートロジー染みている。尻尾を追いかけるわんこの気分だ。
 少なくとも、全然トキメキなんて感じてない。
 だから多分、これは恋じゃあないんだろう。
 恋とはきっと、もっとこう楽しそうで、微笑みにあふれていて、例えばそう――目の前のカップルのような感じ――なのだろう。
 あーあ。
 楽しそうだなぁ。
 小さいため息と一緒に、授業終了のチャイム。
 またどうでもいいことを考えているうちに、終わってしまった。
 というか。
 月曜日、必修科目の授業中に、目の前でカップルがいちゃついていた。
「…………」
 何となく二人が教室を出ていくのを見送ってから、わたしは広がった筆記用具を片づけようと、机の方に意識を戻す。その時、隣に座っていた子がぼそりと呟くのが聞こえた。
「ったく、うざい……」
 オメガ、ω君にしておこうか。つっけんどんな彼だから、あえて可愛い文字にしておこう。
 ω君は、続けてぼやく。
「ヨソでやってくれっつーの……学習の邪魔になるったらありゃしない……下らない下らない……。くそ、ここ写せなかったじゃないか……」
 どうやらさっきのカップルが角度的に邪魔になって、ω君の位置からは見えない板書があったらしい。苛立たしそうに舌打ちをしながら、シャープペンシルの先端をうろうろさせている。前後の式から、間の空白を埋めようとしているようだった。
 彼は、稀に見るほど真面目な生徒なのだ。
「あの」
 わたしは、ω君に声をかけた。
「あぁ?」
「そこの板書……わたし、取れてるから、見せようか?」
「ああ……助かる」
 少しきょろきょろと周りを見るようにしてから、ω君は頷いた。少し恥ずかしそうだ。
 ノートを広げて見せると、彼は手際よく写していく。そして手を動かしながら、ぼそぼそと呟くように話しかけてきた。
「……お前、次の授業……、大丈夫なの?」
「うん。間に一限空いてるから」
「ふぅん……僕もだ」
「取る授業ないよね、この時間」
「そう……だな。ここも空きっぱなしだし……。だから、僕はいつもここで自習してる」
「わたしは、図書室か食堂かな」
「ふぅん……」
「飲み物とか、買って飲んだりして……へへ」
「……なるほど。うん」
 何だか、ぎこちない感じの会話だなぁ……あんまり話したことないからかな。ω君、人と話すのがそれほど好きそうじゃないし。見かけた時は、一人で居ることが多い。
「……なあ、さっきの奴ら」
「うん?」
「迷惑だったよな」
「う、うん、そうだね。……でも、楽しそうだなぁって思っちゃった。わたしは」
「ふぅん……お前って、優しいもんな」
「え。そうかな……」
 ノートを貸してもらった遠回しのお礼なのか、なんなのか。褒められて、わたしはなんとなく照れてしまう。
「楽しそう……ね。僕の友人も……最近、彼女ができて。時々いちゃついてんだけど」
「へぇ……いいね」
「いや、うざいよ。運命の相手とか言っちゃって……」
「それはまた、熱愛だね」
 運命の相手、かぁ……すごいなぁ。小指に結ばれた赤い糸みたいな? ……本当にそんな相手がいるなら、わたしはぜひとも会ってみたい。これから先、そんな出会いがあるとは思えないけれど。これまでだって、チャンスがあったとは思わないけれど。
「……終わった。ありがとう」
「あ、うん。良かった」
 わたしは手渡されたノートをしまい、片づけを再開する。
 逆にω君は、別の科目の教科書などをカバンから取り出しながら、また呟くようにして発言を続けた。
「馬鹿らしいよな。運命の相手とか、恋だとか」
「そ、そう?」
「下らないよ」
「そ、そっか」
 強めに言われて、ついつい首肯しまった。
 他ならぬわたし自身が、その『馬鹿らしいこと』について、ずっと悩み続けてるんだけど……。うーん……。確かに、不毛で、馬鹿らしいことかもしれない。下らないことか、まではわからないけど。
「お前さ、考えたことある?」
「え、何について?」
 恋について?
 馬鹿らしいことについて?
「運命の相手って何か、について」
「ん、んー……ない、かな」
 そう指摘されると、これまたかなり意味の曖昧そうな言葉だ。
「例えばさ……」
「例えば?」
 意外とω君っておしゃべりなのかな、と思いながら、わたしは話に乗る。
「……定義するとして」
「定義? 『運命の相手』について?」
「そう。仮に、『お互いに好みのタイプで、関係も上手くいく相手』としてみる」
「確かに……大きく的を外してはない、かな」
「ここで、『好みのタイプ』が十人に一人の割合で居るとする。異性であることを考えると、1/2をかけて、二十人に一人。小学校のクラスに一人……よりは多いくらい。けっこうゆるめな条件だけど……ここまではいいか?」
「うん、いいと思う」
 彼が何を言わんとしているのかわからないままだけど、特に異議はなかった。
「一方的な『運命の相手』だと、片思いでしかない……勘違いなので、相手からもこの条件が当てはまるとする……と、また1/10なので、かけて、1/200……。これが、お互いに好みのタイプである確率だ」
「うん、そうだね。学年に一人いるかどうかくらい?」
「そして、顔が好みだとしても……気が合うかはわからない。性格的に相性がいい、という確率も、1/10としよう。1/2000になった」
「容姿がお互いに好みで、相性もばっちりって確率かぁ……そのくらいになっちゃうのかな」
「さらに、『想いがあらわになる確率』……『告白に至る確率』も考えないといけない」
「ああ……確かに。好きだって思っても、告白しないこともあるもんね」
「告白できるほどの長い付き合いにならないことも多いから……1/10として、ここまでで1/20000……二万に一つの確率になる」
「ふむむ……」
 結構少ない……?
 でも地球上には六十億や七十億も人がいるんだから、十分にあり得るようにも感じる。実際のところどれくらいだろう?
「ところで、毎年100人の新しい人間と出会って交流を持つとする。三日か四日に一人、新しい人を紹介してもらう計算だから……結構きついけれど」
「不可能ではない……くらいかな」
「そうすると、10年で1000人の人間と交流が持てる。100年で10000人」
「一万人。……うわぁ、それだけの人としか会えないんだ」
「さっきの『運命の相手』と出会う確率が20000分の1だから、100年間生きたところで、出会える確率は20000分の10000……二分の一の確率になる」
「実際に、交際したり結婚したりできる現実的な年齢を考えると、もっと低いね」
「計算に使った想定自体かなり緩いし、他にも要素があるだろうしな。だから僕は、『誰にでも運命の相手がいて、その人と結ばれるんだ』って考えは、馬鹿らしいと思う」
「はー……」
 ていうか、その結論に落ち着くための長い話だったんだ。回りくどいのか用意周到なのか。わかりやすくはあったけれど、そこまで順を追わなくてもいいんじゃないか、と、苦笑を禁じえない。
 夢が、ないなぁ……。
「ω君は……」
「ん?」
「恋、とか……どう思う?」
「あー……進化の結果だと思う」
「し、進化?」
 また大きな話が出てきた。
 わたしは確か、『恋』について質問したんだよね……。
「ああ。……人類は知能を手に入れたから、将来の予想や妄想が可能になっただろ」
「うん……」
「それによって、『理想の相手』についても想いを巡らせられるようになった。例えば、将来『理想の相手』と出会えるかもしれないとか、こんな人と一緒になりたい、だとか……」
「確かに……自然なことだね」
「一方で、さっき話したように……『理想の相手』と出会える確率は、そんなに高くない。いつか『理想の相手』に出会えるかもしれないのに、待っていると人生が終わってしまう……生物的に子孫を残せなくなってしまう、ってジレンマ。えっと……、どうする?」
「ええ……きかれても。ううん……そこそこで満足する、とか」
「そう。予想や妄想と、現実の間で折り合いをつけないといけない。手の届く、『妥当な相手』で手を打つ、という選択が必要になって……」
 右手と左手を机の上でパタパタさせながら、ω君は言う。
「でも、その『妥当な相手』をどうやって決めるか……『理想の相手』をどうやって諦めるか……。そこで、決め手になる『恋』が、生存戦略として有効になるわけ」
「恋が生存戦略……なんか、凄い響きだね」
「要は、『今、目の前にいる相手こそが最高だ』って自己催眠をかけるんだ。それで、うまく理想と現実の折り合いが付けられる。……結果的に、『恋』の上手な人、『恋』に落ちやすい人が、子孫を多く残せて、割合を多くしていって、人類は『恋』するようになった。それが、進化の結果、って意味」
「つまり……、高いところの餌が食べやすくて、長い首のキリンが生き残りやすく、結果的に首の長いキリン達ばかりになったように、『恋』する種が人類として残ったってこと?」
「そう……僕は思う。まぁ実際のところは、進化のスパンは万年単位だから、まだ経過でしかないだろうけど」
 肩をすくめるようにして、ω君は話をくくった。
「ふむむ……」
 ため息が出てしまう。
 すこし牽強付会に感じるところがないではないけれど、言ってることはわかった。よく考えるなぁ、とも、身も蓋もないなぁ、とも思う。
「お前はどう思うの?」
「え?」
「『恋』とやらについて」
「え、うーん……よくわからない。よくわからないから、ω君に訊いてみたんだけど……」
「ふぅん……」
「なんか……みんなを見てると、楽しいものなのかな、って思う。わたしもいつか、できたらいいな、って」
「……ふぅん。あんまり……僕たちみたいなのは、向いてないと思うけどな」
「向いてない?」
 恋する才能がない、ってことかな。
 そう言われちゃえば、もちろん……自分が恋に向いているとは、少しも思えない。
「……自分を騙して、『そこそこで満足する』のが恋だとするとだ。考えて、答えを出そうとしてしまう人は、恋には向かないんだよ」
「そっか……そうかもね」
 向かない、か。
 やっぱり、恋は考察するものではないのかもしれない。
 運命や占いを、純粋に信じられる人じゃないと、恋はできないのかもしれない。
 ――なんて、そんな風に割り切れてしまえば、むしろ楽なんだろうけれども。
 話がひと段落したようなので、わたしはがらんとなった教室を見渡してから、ω君に呼び掛けた。
「あの、ω君」
「うん?」
「折角だから、食堂で……お茶でも飲みながら、雑談しない?」
「いや」
 ω君は、首を横に振った。
「僕はここで次の予習をしてるよ」
「そう」
「ああ。……ノートありがとな」
 微笑で応じて、わたしは席を立った。
 なんだか先生の授業より、頭を使った気がする……。


†    †    †



 恋は人を美しくするという。
 あの子、最近綺麗になったわ。恋でもしたんじゃないかしら……なんて。
 若干都市伝説めいたよく聞く話だけれど、本当だろうか。
 少なくとも、見てくれる相手ができたとか、見てほしい相手ができたとかのモチベーションを抱くことで、綺麗になるために努力しやすくなるとは思う。他にも、強烈に誰かを好きになることで、身体のホルモンバランスとかが影響を受けて、新陳代謝や色気が促進される効果も、なくはないのかも。
 うん。
 綺麗になるコツは、恋をすることだったりして。
 ……なんだか、とっくに雑誌に特集されてそう。
 翻ってみて、美しくあることって、恋に何か影響を与えるのかな。
 もちろん、良い外見の人の方が恋……とりわけ両想いの恋ができるチャンスは多いと思う。言い寄られることが多ければ、そういう気分になることも増えるだろう。でも機会の数と実際にそうするかというのは、きっと別の話で。美しい人が残らず恋をしているわけでもなければ、美しいことが恋の必須要項でもないだろう。見た目で人を判断しちゃいけない、みたいな。
 ただ、美しくあることは健康を維持するのと近いと思うから、健全に恋心を育てやすいっていう要因にはなるかもしれない。
 ううーん、多少強引か。
 世の中に無関係な事象なんて何もなく、回り回ってすべてに関連性がある……と言ってのける程度の強引さに感じる。
 などと。
 わたしがまたそんな風に、毒にも薬にもならないことをつらつらと考えてしまったのは、先ほどお会いした方がとても綺麗だったから。
 穏やかな午後の昼下がり。
 場所は、γさんが入院している病院の近くの、ケーキが美味しい喫茶店。
 三人の注文が済んだところで、
「えーと、改めまして。こちら、兄ちゃんの彼女さんの、デルタさんです」
 と、βが紹介してくれた。
「初めまして。よろしくおねがいね」
 応じて、δさんは軽く優雅に会釈。
 ふわふわっと髪が揺れる。
「初めまして、αです……」
 わたしも、ぎこちなく挨拶をする。
 δさんとは、さきほど三度目のお見舞いをしたときに、病室で偶然お会いした。すこしγさんの容体などについてお話をした後、折角だからと一緒にお茶をする流れになったのだった。
「ど、どうしよう、β。美人さんだよ」
「でしょ! お兄ちゃんもやるよね!」
「うん。びっくりしちゃった」
「あらー、ありがとう。でも、元はそれほどでもないの」
 微笑むしぐさにもふわりと気品が漂うδさん。素敵だ。
「本当よ? メイクのコツを、ちょーっと教えてもらっただけ。お化粧って、すごいんだから」
「えー、そうなんですか? 教えてほしいなぁ」
「そうねぇ。でも、道具を実際にいじりながらの方がいいかしら」
「ふむふむ」
「どこかでタイミング作りましょー。実は、友達がメイク関係のお仕事やっててね……」
 はしゃいで話すβと落ち着いて答えるδさんは、既に仲良しこよしのようだった。
 それもそうか。
 妹と、兄の恋人さんだもんね。すでに何度かお話してるんだろう。なんて、二人の様子を微笑ましいなぁと思って眺めているわたし。ていうか蚊帳の外。
 もっと積極的に絡んで行った方がいいのかな。
 特に手を打てないままでいるうちに、注文したお茶とケーキが到着した。
「おっと、来たなウチのシブースト!」
「わぁ、美味しそうだね」
 δさんの前ではモンブラン、わたしにはレアチーズケーキが、可愛らしくアピールしていた。お店で頂くケーキはおめかししていて、見ためも素敵。
「揃ったし、頂きましょうか」
「はぁい」
 んー。
 おいしー。
 しばらくケーキと紅茶を堪能しながら感想を述べ合っていると、思い出したようにβが言った。
「って。ウチばかり喋ってちゃダメじゃん。折角αのためにδさんをお誘いしたのに!」
「え、わたしのためだったの? 」
「そうだよ? αがδさんとお話ししたさそうにしてたからだったの。ちゃんと話題の一つや二つ用意しておいてよ」
「えええ、わたしが悪いの!?」
 気遣いはありがたいけれど、セッティングなんか要求してないよ。
 話題用意しておけと言われても……聞いてないし。βは強引だなぁ。
「何かいい話題ないの? 最近あった面白い出来事とか、最近聞いた面白い話とか」
「うーん」
「あ、そうそう。この間ね。雨上がりに傘を持って道を歩いていたんですよ。そしたら、ついーっと、自転車が横をすり抜けようとしたわけですよ。それに気づかず端に寄らないでいたら」
「いたら?」
「ずぶっと! ウチの傘が自転車の前輪に! 突き刺さっちゃったわけですよ!」
「わぁ」
「そのまま傘が巻き込まれちゃって!」
「危ないね!」
「乗ってたおじさんは無事だったけれど、すっかりはまりこんで抜けなくなっちゃってて!」
「あらら」
「前輪が回らなくて仕方がないから、その人と一緒に近くの自転車屋さんまで運んで行ったよ……重かった・あんど・恥ずかしかった!」
「運んであげるβはいい子だ。お疲れ様。ところで、傘は無事だったの?」
「破れちゃってたけれど、ビニール傘だったからセフセフ」
「不幸中の幸いって奴かな」
「うんうん――ってなんでウチが話題提供してるの!」
「あいたっ! 叩くのは無しでしょ!」
 モーションつきの突っ込みが入った。
 いや、ノリノリで話し始めたのはβでしょ!
「ふふっ。本当に仲いいなー」
「うぅ……」
 δさんに笑われてしまった……。少々ショック。
「ほら、今度はαの番!」
「う、うーん。面白いかどうかは分からないけれど……」
 気の利いた話はすっと出てこなかったので、先日ω君と交わした会話を紹介してみた。運命の人に会える確率とか、恋は進化で獲得したものだとか、一風変わった視点からの意見について。
 それを取り上げたのは、普段γさんと接してるような人なら、興味を持ってくれるかもしれない、と思ったから。でもいざ話してみると、喫茶店でお茶しながら話すにはディープすぎたようにも感じたり。βもδさんも、頷きながら聞いてくれてたけど。
「……というようなことを話してくれたよ」
「ふぅん……。難しいこと考えるなぁ」
 βは感心したように、背もたれに深く体重を預ける。
「そういえば兄ちゃんから借りた本にも、進化云々の話が載ってたっけ。環境に適していた子の特性が引き継がれやすいんだとか」
「うんー。この場合は、『恋』できる人の方が環境に適してる、って話かな」
「とてもユニークな意見ねー」
 紅茶に口をつけるδさん。
「ただ、特に確率計算の方だけど。無視してるものがあると思うな」
「無視、ですか?」
「好みのタイプや性格ってずっと変わらないもの?」
 そっと机へ疑問を置いて見せるように、彼女は問いかけた。
 ふむ、と。
 わたしたちは少し考える。
「うーん、そういえば、割とあるよね。以前はそれほどではなかったものが、あとから好きになったり……逆に、前はぞっこんだったけれど今はそうでもないとか」
「あるねぇ」
「ええ。人は変化するし、影響を与えあうもの」
「相互に変化していくってことですね」
「そうね。人は社会的な生き物だもの。好かれるから好きになる――好かれるために努力する。って、当たり前な話でしょ?」
「確かに……」
 ω君の視点では、知り合った人同士の相互作用についてまでは、考えられてなかった。好みや性格の固定された人達が、ランダムに出会うとする……っていう前提で、論が進められていた。
「恋は感情的な自己催眠。勘違い、思い違い。大きく外れてはいないだろうけど、理詰めだけで人は生きられないんじゃないかな」
「ですねー。ウチなんか超感情的!」
「感情は、社会を作る上でのセンサーみたいなものじゃない?」
「かもしれません。それこそ、進化で獲得したものかも……」
「考える要素として、無視はできないもの。もっと肯定してあげなくちゃ。たとえ陳腐な確率でも、感情が『必然だ!』って言えば、それはもう、必然や運命にしか思えないだろうし、実際…………」
「……?」
 発言が途中で止まってしまったので、どうしたのかとδさんの方を見ると、何やら食べかけのモンブランをじっと見つめていた。
 いや、そのてっぺんかな。
 ちょこんとモンブランの頂上に座った、何の変哲もないマロンを見つめていた。
「……どうしました?」
「あ……、ごめんね。このマロンがあんまり可愛いから、食べようかどうか迷っちゃって」
「ぶっ、なにそれ。可愛いのはδさんですよ!?」
「βに同意!」
「ふふー。決めた! 食べちゃお」
 δさんは口にマロンを放り込んで、幸せそうに頬をほころばせた。
 不思議な人だなぁ……この人の周りでは、時間がゆったりと進んでいくみたい。
 けらけら、とひとしきり笑ったあと、βがたずねた。
「えと、それで……実際、なんだったんです?」
「ん。ああ……えっと。流れを忘れちゃった……」
 少し思い出すように目をぱちくりとさせるδさん。
「……実際、感情がそう言うのなら、それで良いんじゃない?」
 と、δさんは言った。
「現実と相違があったとしても、私たちにとっては感じ取れたものが本物なわけだし」
「うんうん」
「ちょっと強引な気もしますけれど……」
 まぁ、そうか。そうだよね。
 嬉しいとか好きだとか感じているのに、わざわざ理屈や理論で否定してもしかたがない。負の方面の感情だったり、暴走しかけているのならまだしも、害のない心地よい気持ちなら、そのまま素直に受け取ってあげればいい。
「それに、ね。きっかけだと思うわ」
「きっかけ、です?」
「人付き合いに必要なのは、理屈でも感情でもなく、きっかけ」
「ふむ」
「感情はあとからついて来るし、理論もあと付けできるもの。でも、きっかけがないと始まりすらしない」
「あー」
「どんなに走るのが速い人が、いくらたくさんいても、よーいドンってする人がいないと、試合にならない、みたいな」
「そー。そんなかんじ」
 とっさに例えたのだけれど、頷いてもらえて嬉しい。
 厳密には、きっかけと合図は意味合いが違うとも思うけれど……的を外してなければ、いいか。
 そこで、すっと隣から挙手があった。
「きっかけと言えば、δさん! 兄ちゃんとはどういうきっかけでそうなったんですか?」
「きっかけって、なれ初め?」
「はい。δさんと兄ちゃんのなれ初め話、気になります!」
 あ、わたしもそれは気になってた。ナイスβ。
「んん……、それこそ、ただの『きっかけ』」
 くすっと吹きだすように笑ってから、δさんは話してくれた。
「さっきのβちゃんの話じゃないけれど、傘なのよ」
「傘?」
「会社が立ち上がったころ……オフィスもできたころ。今後の方針も決まったので、さあ帰ろうとなって、ふっと外を見たら、雨の降ってたことがあったのよ」
「あー、気づかない間に降り出しますよね」
「私とγ君は少し出るのが遅くなって残っててね。そしたら彼が変なことを言ったのよ」
「変なこと?」
「えーっと、たしかこんな感じ。……『なんということだ。嘆かわしい。先の見通しも済んで晴れやかな気分の帰り路に、なんと雨が降っているとは! 俺は傘を持ってきていないんだぞ。先に帰ってしまうとは薄情な奴らだ。然るべき手順に則った適切な報復が必要だな』……とかだったかな」
「言いそう」
「いつもの兄ちゃんだね」
「でしょ? でも私はそれまでγ君とそんなに話したこともなかったから、新鮮だったのよー。笑っちゃった」
 思い出したように、δさんの顔はまたゆるむ。
「それで、私は傘を持ってたから、貸すことにしたのよ」
「おお、相合傘ですね!」
「うん。この歳になって相合傘かぁ、って私も思ったタイミングで、ちょうどγ君も考えてたみたいでね。『この年齢になって相合傘とは、ときめくのも何かおかしい気がするよねぇ』とか言ったのよ」
「γさん……」
「貸した方の顔が立たないだろうが、兄!」
「いや、続けて『とはいえ、君のような可愛い人となら年甲斐もなく心が躍ってしまうものだけれど。案外雨に感謝するべきかもしれないな』とか言ったのよ」
「それはまた……」
「ウチの兄が大変恥ずかしい真似を……」
 γさんが発した(らしい)歯の浮くような過去の寒い台詞に対し、βが頭を下げる。妹って大変なんだなぁ、と思わなくもない。
 大いに変なのは、むしろγさんかもしれない。
「ううん、別にそんな……その時は、不思議な人って思っただけで。……変な人だ、とも思ったかな」
「わかります」
「だよね」
「で、γ君と付き合ってみようかなって」
「わかりません!?」
「なんで!?」
「この人と一緒だと、退屈しなさそうだったから……かな? あまり話したことはなかったけれど、人望があるのは知ってたし。あ、でも当然そんなに強く思ったわけじゃないのよ。冗談交じりに、『そんなに可愛いと思ってくれるなら、付き合ってみる?』って訊いてみたくらいで」
「それでも、訊いてみたんですね」
「即断即決だわぁ」
 真似できる気がしない。
「そしたらγ君、『それは良い! 丁度交際相手を探していたところでね。是非もない!』って感じでね。もう笑っちゃったわ」
「兄ちゃん……」
「というか、δさん。さっきから笑ってばっかりですね」
「言われてみれば、そうね。でも、たくさん笑いあえる相手がいるっていいことでしょう?」
「それは、確かに……そうですね」
「うん。そんなこんなでγ君と一緒にいるけれど……、色々気も使ってくれるし、面白いし、特に後悔はしてないの」
「はぁー……」
「迷惑をかけてないようなら良かったです……」
 感心してしまうわたしと、胸をなでおろすβ。δさんが、兄のγさんに満足しているようだったからだろうか。
 何でもない話のようだけど、δさんもなかなか、個性的な人かもしれない……。そんな風に付き合うって、簡単にできることではないんじゃないかな。それは『きっかけ』を大事にしてる彼女だからこそで……。いや。世の中、結構そんなものなのかなぁ。
 いざ語ってみると、笑っちゃうような経緯があるだけで。
 実際は、ただ『縁があった』だけのお話。
「うん。話してみちゃうと、『きっかけ』があっただけなのよね。今は、お互いそれなりに好きにやってるし、お互いのために努力もしてる。あとから見れば、相性が良いように映るかもしれないけれど、あの時の帰り道がなかったら、こんな風にはなってない」
「なるー」
「人付き合いに必要なのはきっかけ、ですか」
「そうねぇ。極論になっちゃうけど、理由も感情も、あとからついてくるものよ」
「え、ええっと。これからも兄ちゃんのことをよろしくお願いします」
「あ、はい。こちらこそ?」
 頭を下げ合うβとδさん。
 そんな様子に三人で噴き出して、ケーキも紅茶もなくなったところで、このお話は終了した。
 しばし雑談が続いて、そろそろいい時間。δさんが伝票を、当然の役目のように手に取った。
「さて……二人とも学生さんでしょ? 払っちゃうわね」
「わわ、ありがとうございます!」
「御馳走になります〜」
 格好いい……素敵な社会人さんである。
 というより、学生という立場が便利なだけな気もする。
 わたしとβは精一杯、いっぱいいっぱい、感謝の意を示した。
「あ、そうそう」
 バッグの中を覗いたδさんが、思い出したかのようにそうつぶやいた。
「さっきγ君と話してたんだけど……、一緒に行く予定で、あの人は入院しちゃったから。これ、あげるー」
 この上に物をいただくなんて恐れ多い、と困惑しながらも、押し付けられるように手渡されてしまった。
「代わりに楽しんできてね」
 水族館のチケット。ショーとお食事込み。
 二人用の、二枚組だった。


†    †    †



 その日、わたしは寝込んでしまった。
 わけもなく情けない気分になっちゃう。
 全身にだるい感覚があったものの、切羽詰った深刻さはない。きっと、風邪だと思う。
 眠くもなかった。
 ただ横になり、濁った頭のままで天井を眺めていた。
 あーあ……。
 ……そういえば、恋の病って言葉がある。
 よく聞く言葉。
 恋は病気なんだろうか。
 胸がドキドキして熱に浮かされるから、そういうの?
 いやいや、自分ではどうにもできないからこその表現かな。
 でも……病にかかるのはだいたい不摂生なときだから、それなら恋の病にかかるのは、心の均衡を欠いているってことなんだろうか。
 だったら、恋したいと願うのは、病気になりたいと思うようなもので、おかしい話かもしれない。
 おかしい、か。
「……なんで……」
 天井に呟きかけてみる。
「なんで……かな」
 もちろん、答えは返ってこない。
 恋に関する考察のように、袋小路だ。
 吐いた溜息が、ゆっくり落下してきて、顔に降りかかる。
 昨日のことがぐるんぐるんと頭を巡るのは、きっと風邪のせい。
 ……おかしいのは、多分、わたしの方か。
 滑稽な意味でも、おかしい。
 本当に、笑える話かもしれない。
「あはは……」
 笑い声を棒読みして、寝返りを打つ。
 さっきからこんなことの繰り返しばかりだ。
 こんな風にベッドでもぞもぞしていても、良くなるとは到底思えなかった。ので、いい加減……あまり本調子ではなくても、ひとまず体を起こそうとした。
 そうしたら。
 とんとんと、ノックの音。
「……はーい」
「もしもーし。ウチだよ。お見舞い来たよ」
 βの声だった。
 少しの、逡巡。
 まごついてる間にドアが開く。
「あ。身体起こして大丈夫なの?」
「う、うん……もともとそんなに、具合悪いってわけでもなかったし……」
「でもすごく顔色悪いよ」
「え、そう……?」
 思わず頬を触った。
 本当にそんな不健康な顔をしてるかな。
 もしそうなら、それは体調だけが原因じゃないかもしれない。
「ダメだよー。自己診断はアテにならないんだから。特に病気してると、感覚も狂っちゃうしね」
「……うん」
 狂っちゃう、という言葉にささやかな怯えを感じつつ、わたしは頷いた。
 確かに、何だか気弱すぎるかも。
「いろいろ買ってきたよ」
 ビニール袋を開きながら、βがベッドの端に腰掛けた。
「スポーツドリンクに、食べやすそうなものに、貼ると冷えるやつに、あと新しく出てたお菓子と漫画」
「最後の方は、βが買いたかっただけじゃない?」
「実はね! 続きが気になっててさー」
「……飲み物ちょうだい」
「ほいほい」
「ありがとう」
 わざわざ蓋を開けて渡してくれた。
 口に含んで、ゆっくりと飲む。レモン味。
 はぁ……染み込むう。
「冷えるの貼る?」
「ううん。熱はないよ」
「えー。一応もう一度測っておきなよ。せっかく買ってきたんだから!」
「貼りたいだけじゃ……」
 自分勝手だなぁ。
 そう思いながらも、しぶしぶ体温計を腋に挟んだ。
「あれ……そういえば玄関。カギかかってたんじゃない?」
 わたしの両親は、日中家にいない。
「ああ、うん。αのお母さんに、今朝連絡受けて。隠しカギの場所教えてくれたの」
「お母さんはもう。過保護だね……」
「まあまあ、愛されてるってことで」
 笑って手をひらひらさせてから、袋から漫画を取り出すβ。
 ビニールを外して、さっそく読み始めた。
 まつ毛が揺れて、瞳がエンターテイメントを追いかける。
 その横顔を、わたしは何となく眺めていた。昨日の言葉や今日考えていたことが頭の中を駆け回るけれど、唇にまでは降りてこない。訊いてみたいことがあっても、訊けないままに。
 体温計のアラーム。
「……36度の、2分。だから、平熱だよ」
「ん。よかった。じゃ、冷えるのは要らなかったねー」
「まぁ、あって困るものじゃないし」
「これさ、ペットボトルに貼ったら冷えるのかな?」
「どれだけ貼りたいの。……やってみたことないけれど、そんな劇的には冷えないと思うよ……ていうかもったいないよ」
「そりゃそうか」
 でもチャンスがあったらやってみよう、とβが笑う。
 その笑顔を見ながら、わたしは昨日のことを思い出す。
 また思い出してしまった。
「……どう、して……」
「ん」
「ううん、何でもない」
 慌てて訂正。
 ついつい漏らしてしまった疑問は、あまりにも断片的だった。
「……そう?」
 怪訝そうにしながら、βは手にした漫画をまた開く。
 わたしも、スポーツドリンクを再び味わう。
 時計の音。
 時間が、カタツムリみたいにゆっくりと過ぎていく。
 這うように。
 こうやって、何もかもが、うやむやになればいいのに。
 ――どうして、βはあんなことを言ったの?
 さっき訊きかけたこと。でも、訊いても困らせてしまうだけだろう。
 わたしだって、どんな答えが返ってくるかを考えると、怖い。
 だから、とても訊けない。
 手にしたペットボトルを見つめて、そんな風にまたぐるぐるしている。
「気になるなら」
 と、唐突に。
「気になることがあるなら言った方がいい」
 目線は漫画に向けたまま、βが言った。
「溜めこむのは辛いよ。ウチは、αを追いつめたくない」
「でも……」
「うまく返せるかわからないけど……でも、そんな顔して溜めこまれるよりは、ずっといいよ。少なくともウチは、そう思う」
「…………じゃあ」
 言う。
 と、ため息みたいに消え入りそうな声で、わたしは決心した。
 ぐっと手を握って、βの方を見て。
「どうして……βはあんなことを言ったの?」
「……あんなこと?」
「昨日の……帰り際の……」
「昨日の……ね」
 昨日。
 日曜日。
 δさんから頂いたチケットで、わたし達はありがたく遊ぶことにした。
 それ自体はいい経験だったと思う。良い思い出になった。大した波乱もなかったし。ショーも楽しめた。ついてたお食事もおいしかった。
 でも、それよりも鮮烈に、強烈に、わたしを揺るがすことがあった。
 帰り道の話だ。
 どういう話の流れだったかは、覚えてない。
 そのあとのことで忘れてしまったのか……そもそも、脈絡はあんまりなかったのかもしれない。
「実はね」
 小さく前置きをして。
 ぽそりと、つぶやくようにβは言った。
「好きだよ、αのこと」
 冗談なのだと思った。
 けれど、いい返しは出てこなかった。
 せめてここで、笑って流せればよかった。
「恋してる的な意味で。真面目に」
 そう、付け加えられた。
 冗談にはできなかった。
 わたしは、まごついた。
 理解が、遅れた。
「やっと言えたわ」
 いつもよりも、もっと嬉しそうにβは微笑んだ。
 好きな素敵な笑顔だったはずなのに、そう感じられるだけの余裕はなかった。
「じゃあね。また明日」
 βは軽く手を振って、帰って行った。
 楽しげに。
 わたしは取り残されてしまった気分だった。
 ただの友達でいたかったのに。
 取り残された気分は、心地よいとは全くいえなくて……気分が悪くなって。あげくの果てに、今日具合が悪くなってしまったのかもしれない。
 βが目の前にいるのに、今もまだ、取り残された気分のままなんだ。
 どうして、あんなことを言ったの?
 どうしたら、いいんだろう。
「どうしてって、それは……んー……」
 やっぱり困ったように首を傾げてから、βはコミックを閉じて、横に置いた。
「……その。恋はきっかけってδさんが言ってたじゃん? そのきっかけを、αはたくさんくれたよ。今までにね」
「……」
「でも……ウチは、それをずっと逃してた。だから、昨日は……思い切ってみようかな、って」
「そうじゃ、なくて……」
「……ん」
「そういうのじゃなくて……それも、大事だけど……」
「うん……」
「わたしは……、βは……」
 もどかしい。
 口が無意味に、もごもごとする。
 爪を突き立てて、ペットボトルを握りしめる。
 わたしのどこが好きなの? わたしなんかの何がいいの? わたしも、βのことは好きだけれど。そういう感情なのかわからない。友達じゃダメなの? 恋なんて分からないよ。いくら考えても答えは出ない。どうしてβは恋ができるの?
 恋を理解しているのなら。
 どうか教えてほしい。
 たくさんの疑問が脳内で交差し、形にならない思いが充満する。
 果てにどうにか吐き出せたのは、たったの一文だった。
 涙を滲ませるみたいに、やっと、その言葉を口にした。

「……わたしは、女の子なんだよ……」

 βは少しだけ、眉をひそめた。
 目をかすかに細め、何か言おうとして。
 口を結んでから。
「それでも、いいよ」
 と頷いた。
 顔をあげて、笑顔を見せて。
「それでもいいよ」
 と、もう一度。今度は、はっきり繰り返した。
 ――本気で言ってるの?
 そう思わずにはいられない。
「どうして、わたしなんかを好きになったの」
 往生際が悪い。
 理解がのろい。
 ほんと、情けない。
 こんなにも情けないわたしなんだよ。
 恋をしたことがない。
 恋のことがわからない。
 そのことで、ずっと悩んでいる。
 他愛もない、できそこないなんだよ。
「……変だよ」
「……そうかな」
「おかしいよ……」
「ウチはね。例えば、αの思いやりのあるところが好き」
「……」
「優しいところが素敵だと思う。センスが個性的なのも好きだよ。何より、一緒にいて、一番楽しいから。ずっとそばにいたい。αもそう思ってくれてたら、嬉しい。これも、変なことかな……?」
「…………」
 わたしはそんなに素晴らしい人間じゃない。
 他の人とは違う、コンプレックスのカタマリだ。
 けれどもβは真っ直ぐだった。
 その真っ直ぐさを、できれば受け止めたかった。
 なのにできない。
 ……おかしいのはやっぱり、わたしの方か。
「ずるいよ。βは簡単に恋をして……」
 なんてひねくれてるんだろう。
 的外れな文句なのはわかってる。
「わたしは、恋のことなんかわからない。なんでみんなできるのかわからない。ずっと悩んでいるのに、理解が追い付かない。なのに、……そんな風に。好きだとか言われても。何も返せない。受け止められないよ」
 たどたどしく、止めどなく。
 言い訳がましく、みっともなく。
 消えてしまいたくなるような告白をする。
 前向きな告白に対して、真逆のことをぶつける。
 ずっと劣等感を抱いているのに。
 簡単にそれを飛び越えてしまう彼女が……、世の中のみんなが、羨ましくて妬ましい。
 眩しくて。目を背けることしかできない。
 でもβは、ゆるりと、かぶりを振った。
「ウチも、恋のことなんかわからないよ。これが友情なのか恋慕なのかもわかんない」
「え?」
「ただ、想いを伝えたかっただけ」
「……それが、恋なんじゃ……?」
「定義なんか必要ないと思うよ」
 必要ない。
 と、言われた。
「他の人と同じ感情を抱かなきゃいけない――なんてことは、ないでしょ。本当に他の人が同じ気持ちかなんて、確かめようもないしね。だから」
 だから。
 胸を張ればいいんじゃないかな。
 ウチがαを好きになっちゃったみたいに。
 そうはにかんで見せるβ。
「自分で決めればいいんだよ」
「自分で……」
「恋心なんて、自分で決めていいんだよ」
 自分で、決める?
 何それ。
 何を、そんな、簡単に。
 そんなので、いいの……?
 とっさに抱いた懐疑と猜疑は、舌に乗ることのないまま。
 やがて。
 ふっと。
 溶けて気化して、身体から抜けていった。
 引っかかっていたものが、ほどけた気がした。
 気のせいだったとしても、そう感じてしまったのだから、仕方ない。
 どうしてだろう。
 まるで、ようやく自分を見つけたみたいだった。
「いいじゃん」
 ふいに、βが抱きしめてきた。
「また少し、αのことが知れて嬉しいよ」
「……言ってて恥ずかしくない?」
「今日はそういう日。毒皿毒皿」
「あはは、ぶっちゃけすぎ」
 思わず笑っちゃった。
 昨日から初めてかもしれない。
「……だったら、もうちょっと、教えてあげる」
「ん、何?」
「わたしも。βの笑顔はずっと大好きだったよ」
 強く、抱きしめ返してみた。
 ずっと探してた確かな実感が、そこには在った。
 ……などとお茶を濁して、モノローグを括ろう。


†    †    †



 わたしのかつてのコンプレックス。
 わたしの強烈だった劣等感。
 恋をしたことがないこと。
 恋心がわからないこと。
 散々悩みもした。
 考察をした。
 いろんな人の意見を聞いた。
 日常だったり、非日常だったり。
 才能だったり、思い込みだったり。
 愛とは違ってたり、不必要だったり。
 確率論だったり、進化の結果だったり。
 きっかけだったり、後からついてきたり。
 どれも鮮烈で、個性的で、違っていた。
 でも、全部間違いではなかったと思う。
 だから……わたしもこれでいい。
 他の人と違っていい。
 恋の方程式が解けないのは、
 きっと定義ができないからなんだ。
 こうして、
 確信もないまま、
 静かに、緩やかに、
 長引いたわたしの考察は、短い結論に達した。
 わたしを好きだと言ってくれる人がいる。
 その笑顔が素敵だなと思うわたしがいる。
 なら、もうそれで十分なのかもしれない。
 きっと二人は恋に落ちてるんだと、決めた。
 自分で決めた。
 恋をしたことがないわたしは、恋をしてみることにした。
 今なら、はにかみながらも、こう言える。
 初めての恋を、やっと、始められました。
 わたしなりに楽しんで、時には悲しんで、
 そしてときめいていきたいと、思います。
 うん。
 だからこれにて、少女αの些細な考察――恋の話はおしまいだ。


                          (終)


ここまでの読了、ありがとうございました。
何か御感想などがあれば、
是非によろしくお願いいたします。
どんなものでも、大変嬉しゅうございます。




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